第16話 戻ってきた、何事もない平和な1日
朝の獅子寮は、いつも通りの匂いがした。
焼きたてのパンと、少し濃い目のコーヒー。それに、寝不足の学生たちが持ち込む微かな緊張の匂い。
俺は食堂の扉を開き、自然に息を吸った。
――ああ、戻ってきたな。
特別な感慨があるわけじゃない。
胸が高鳴ることも、達成感に浸ることもない。ただ、いつもと同じ朝が、そこにあった。
「おはよ、ハヤトにぃに!」
甲高くてよく通る声。
振り向くと、エレナが小走りでこちらに向かってきていた。少し大きめの制服を着て、寝癖を直しきれていない髪を揺らしている。
「おはよう、エレナ」
そう返すと、彼女は満足そうに笑った。
「今日の朝ごはん、パン三つもあるんだよ! 全部食べられるかなぁ」
「無理なら一つ俺に回せ」
「えー、それはだめ!」
いつものやり取り。
それだけで、胸の奥が静かに温かくなる。
席に着くと、すでにテオが陣取っていた。
パンを頬張りながら、こちらを見るなり大げさに肩をすくめる。
「いやぁ〜、英雄様のご帰還ですなぁ」
「やめろ」
即座に返す。
エマは向かいの席で、紅茶を飲みながら俺を一瞥した。
「……昨日は、ちゃんと眠れた?」
「普通に」
それ以上でも、それ以下でもない。
エマは一瞬だけ目を細めて、それ以上は何も言わなかった。
昨日までの騒動が、まるで嘘だったかのように、食堂はいつもの雑音に満ちている。
学生たちの他愛ない会話、皿の触れ合う音、笑い声。
――これでいい。
何かを成し遂げたからといって、世界が変わるわけじゃない。
正しさは、日常に溶け込んで初めて意味を持つ。
⸻
午前の講義。
教室に入ると、数人の視線が一瞬こちらに向いたが、すぐにそれぞれのノートへと戻っていった。
囁き声も、噂話もない。
俺は席に着き、ノートを開く。
教授が入室し、いつも通りのテンポで講義が始まる。
「では、前回の続きだ」
その一言で、すべてが元に戻った。
ペンを走らせながら、俺は自分の内側を確かめる。
怒りも、悔しさも、残っていない。
マルクスとの件は、終わった。
終わらせた。
それだけだ。
医療の現場では、ひとつのトラブルに囚われ続ける余裕はない。
患者は待ってくれないし、時間は戻らない。
だからこそ、切り替える。
それが、生き残るための技術だ。
⸻
昼休み、校舎裏のベンチ。
エレナが隣に座り、足をぶらぶらさせている。
「ねえ、ハヤトにぃに」
「どうした」
「昨日ね、みんなが言ってたよ。ハヤトにぃには、やっぱりすごいって」
俺は、少しだけ困った。
「すごくない。ただ、間違ってることを直しただけだ」
エレナは首を傾げる。
「それが、すごいんじゃないの?」
……子どもの視点は、時々本質を突く。
「そうかもな」
そう答えると、彼女は満足そうに笑った。
風が吹き、木々が揺れる。
平和な昼下がりだ。
この時間があるから、人は前に進める。
戦いのためじゃなく、生きるために。
⸻
放課後、実習室。
器具の整理をしながら、俺は静かに手を動かす。
エマが隣に立ち、ぽつりと言った。
「……無理してない?」
「してない」
即答だった。
「無理をしてたら、ここには立ってない」
エマは一瞬考えてから、微笑んだ。
「そうね。あなたは、そういう人だったわ」
テオが遠くから声を張り上げる。
「おーい、帰りに売店寄ってくぞー! 今日は俺の奢りだ!」
「どういう風の吹き回しだ」
「細けぇことはいいんだよ!」
笑い声が、実習室に広がる。
⸻
夕暮れ、獅子寮への帰り道。
空が、ゆっくりと茜色に染まっていく。
俺は歩きながら、胸の奥にある静かな確信を噛みしめていた。
倒れない。
逃げない。
誤魔化さない。
それが、俺のやり方だ。
派手な勝利も、劇的な演出もいらない。
必要なのは、今日をきちんと終えること。
エレナの笑顔。
仲間たちの声。
何事もない、平和な一日。
――これを守るためなら、俺は何度でも立ち上がる。
獅子寮の扉を開けると、いつもの明かりが俺を迎えた。
それだけで、十分だった。




