第16話 届かぬ思い
その日の夜、俺は旧研究棟の廊下をひとり歩いていた。
冷たい月光が割れた窓から差し込み、床のタイルを淡く照らしている。
夜の学園は静かで、足音だけが乾いた音を立てて響いた。
眠れるはずがなかった。
病棟で泣き崩れたエレナの姿を見た後では、とても。
「私が、みんなを傷つけてしまうかもしれない」
震える声が耳に焼きついて離れない。
小刻みに揺れる肩。
恐怖に怯えた瞳。
手の中で強く握られたメス――あれは自分を守るための必死の抵抗で、攻撃の意思なんかじゃない。
わかっているのに、胸が痛い。
孤児院で育った頃から、エレナはいつもそうだった。
小さくて、泣き虫で、それでいて妙に頑固で。
俺はいつも振り回されて、気づけば彼女の後ろを走っていた。
「ハヤトにぃにー! こっちこっち!」
「勝手にどっか行くなって!」
「へへっ、ついてきてくれればいいじゃん」
あの頃のエレナは、無鉄砲なくせに誰より優しくて、
俺の心を掴んで離さない存在だった。
――それは今も変わらない。
旧研究棟の一室に入り、扉を閉める。
薄暗い部屋には古い机があり、その上に俺はエレナのカルテの写しや心理検査の参考資料、薄い医療書を並べていた。
彼女はもう“ただの幼なじみ”じゃない。
先天性心疾患で入退院を繰り返し、精神面でも脆い部分を抱えている。
医学生の俺ができることには限界がある。
けれど――何もしないなんて、もっと無理だった。
書類に目を通すと、胸が締めつけられた。
幼少期に受けた虐待。
里親に引き取られてからの突然の喪失。
そして孤児院に戻ってきたあの日、泣きじゃくって俺にしがみついたエレナ。
「ハヤト、ひとりにしないで……もう誰もいないの」
小さな手は、あんなに震えていたのに。
それでも、俺の服を掴む力だけは必死だった。
俺はその手を振り払えなかった。
いや、振り払いたいなんて一度も思わなかった。
――俺の人生は、いつだってエレナに振り回されてきた。
でも、振り回されることが嫌だったことなんて、一度もない。
資料を読み進めていると、エレナの症状の悪化には一定のパターンがあることに気づいた。
夜。
静かな時間。
独りになるのを恐れて、強い不安を訴える。
その原因は、過去の体験による“失う恐怖”。
専門書にも書かれていた。
だが、苦しくなるのは、そこじゃない。
――症状が重く出る日のほとんどに、俺が関わっていた。
胸が冷たくなる。
もしかして、俺の存在が刺激になってしまっているのか?
頼りたい気持ちと失いたくない気持ち。
その二つが彼女の中でぶつかり合って、不安を増幅させてしまっているのかもしれない。
俺はエレナにとって“絶対にいなくなってはいけない相手”で、
同時に、“いなくなるのが怖い相手”でもある。
恋とはちがう。
でも、ただの友情でもない。
逃げ場のない関係。
離れようとしても、離れられないほど深い結びつき。
資料に落ちた涙の跡を指で拭いながら、俺は息をひとつ吐いた。
「エレナ……どうすればいいんだよ」
彼女を救いたい。
でも、俺が近くにいることで苦しませているのなら――?
そんな矛盾を抱えたまま、俺はずっと迷っていた。
孤児院で同じベッドで泣きながら眠ったあの夜。
体育祭で怪我をして泣きながら俺の腕にしがみついたあの日。
病室で見せた弱い笑顔。
全部、胸の奥底に残っている。
「……もう逃げない」
声にした途端、胸の痛みが少し和らいだ。
逃げていたのは俺だった。
“支える”と決めたはずなのに、踏み込むのが怖くなっていた。
幼なじみとして。
医学生として。
何より――ひとりの人間として。
エレナが抱える孤独と、恐怖と、心の影。
それら全部と向き合う覚悟を、やっと持てた気がした。
窓の外を見ると、病棟の明かりがひっそりと灯っている。
エレナの病室の灯りもまだ消えていなかった。
ああ、寝られるわけないよな。
あんなに震えていたんだ。
今もきっと、ひとりで怖がっている。
――待っててくれ。俺が行く。
俺がそばにいることで不安が増すのだとしても、
それでも俺は彼女をひとりにはできない。
孤児院で出会ったあの日から、
どれだけ振り回されても、
どれだけ困らされても、
俺は――エレナを見捨てたことなんて一度もなかった。
そしてこれからも、ない。
胸に手を当て、深く息を吸う。
夜の冷たい空気が肺にしみる。
でも、不思議と心は温かかった。
「大丈夫。俺が支える。
エレナ、お前の影を照らせるくらいの人間に、俺はなる」
月光の差す廊下を、俺は歩き出した。
幼なじみの、小さくて強くて壊れそうな少女を、
この手で守るために。




