第155話 闘病手記 3 〜夢を諦めても、その価値は変わらない〜
数日後。
午後の光が、孤児院の古い木枠の窓から斜めに差し込んでいた。冬の終わりの陽射しは柔らかいはずなのに、この部屋ではどこか淡く、薄い。床の軋む音、廊下の向こうで子どもたちが走る足音、遠くから聞こえる笑い声。それらが、この場所が「生きている場所」であることを静かに告げている。
俺は、年季の入った机に肘をつき、スマホを見下ろしていた。
通知が震えた瞬間、心臓が強く打つ。
差出人――聖ルカ病院 人事部。
喉の奥がひりつく。来ると分かっていたはずなのに、現実になると、指が重い。
深く息を吸い、メールを開く。
――聖ルカ病院 人事部からお知らせとお詫び――
ハヤト•キサラギ様
貴殿に関する誤情報についての確認が取れました。確認いたしました所、貴殿に関する誤情報は全くのデマだったことが明らかになりました。当医院の新人受付員が、事実を歪曲して流したようです。もしまだご希望でしたら、再度インターン受け入れ体制を再編成します。
読み終えた瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
今更、何を。
窓の外で、風に揺れる洗濯物が視界の端で揺れる。白いシーツが、静かに翻る。
俺をこんな身体にして、許せるわけないだろ。
そいつの間違い一つで、俺の人生は傾いた。
誤情報。事実の歪曲。そんな軽い言葉で片づけられることじゃない。
俺は、毎日、自分の身体と向き合っている。以前のように動かない感覚。予測できない不調。思うようにいかない焦燥。
目覚めるたびに、まず確認する。今日は動けるか。今日は倒れないか。
医者になりたかった。
その気持ちは、嘘じゃない。
ルミエールアカデミーに入学した日の高揚感も、白衣を着る未来を疑わなかった自分も、確かにここにあった。
それが、一通の誤情報で崩れた。
怒りなのか、悔しさなのか、憎しみなのか。感情が混ざり合って、正体が分からない。ただ、胸の奥が焼けるように熱い。
そこへ、勢いよくドアが開いた。
「よぉハヤト!」
テオが、チョコドーナツを両手いっぱいに抱えて帰ってくる。甘い匂いが、一瞬で部屋に広がった。孤児院特有の、木と洗剤と古い本の匂いに、濃いチョコの香りが混ざる。
「お! 聖ルカからメール来たのか。良かったじゃん!」
底抜けに明るい声。遠慮のない手で、俺の背中をバシバシ叩く。
機械は治せても、空気読めない病は治っていなかったようだ。
俺はスマホを机に伏せる。
「こんな身体で行けるわけないだろ。それに……」
言葉が止まる。
孤児院の壁は薄い。子どもたちの笑い声が、遠くで弾む。その無邪気さが、妙に胸に刺さる。
「俺、ルミエールアカデミー辞めるつもりだし」
口にした瞬間、現実になる。
「お?」
テオの動きが止まる。袋がかさりと鳴る。
「それ、本気で言ってるの?」
キッチンでスープをかき混ぜていたエマが、振り返る。ハーブの匂いが、ゆっくりと漂う。
俺は頷いた。
誤解は解けた。名誉は回復した。
でも、身体は戻らない。
あの校門をくぐる自分を想像するだけで、息が浅くなる。視線、噂、ざわめき。耐えられる自信がない。
医者になりたい気持ちは消えていない。
だが、戻れば悪化する。それだけは、はっきり分かる。
「ハヤトが辞めるなら、俺も辞めるぜ」
テオが胸を叩く。
「私も辞めるわ。あんな偽善者の巣窟で、脳なしの集まりなんか」
エマの声には、怒りと絶望が混じる。
「よしてくれよ。お前たちは関係ないだろ」
胸が締めつけられる。
申し訳なさと、感謝と、やるせなさが絡まる。
「関係なくないわよ。ハヤトの悲しみは、私たちの悲しみよ」
「そうだぞ。何があっても俺たちゴールデントリオの絆は永遠だぞ」
ゴールデントリオ。
ルミエール特急で出会い、笑い、喧嘩し、支え合ってきた三人。
「それに、夢をあきらめるからって、あなたの価値が下がることはないわ」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
夢を諦める。
ルミエールアカデミー。
俺の全てだった場所。
夜遅くまで机に向かった日々。眠気と戦いながら覚えた知識。白衣を着る未来を信じていた時間。
それらを、手放す。
「私たちはまだ23歳よ。生きてればいいことあるわよ」
エマが明るく言う。
――生きていればいいことある。
悪意はない。分かっている。
けれど、今を生きるだけで精一杯な俺には、その言葉は少し鋭かった。
生きているだけでいい。
それは、救いであると同時に、敗北のようにも聞こえる。
だが、しばらく黙っているうちに、心の奥で別の声がする。
夢を追えなくなったからといって、俺の価値が消えるわけじゃない。
努力した日々は消えない。
悔しさも、誇りも、全部、俺の中に残っている。
明日、ルミエールアカデミーに戻って退学届けを出す。
その事実を、ゆっくりと受け入れる。
孤児院の部屋は、夕暮れの色に染まり始めていた。窓の外で子どもたちの声が遠ざかり、代わりに食器の音が響く。
ハーブの香りと、チョコドーナツの甘い匂いが混ざる。
この場所は、俺の原点だ。
俺は拳を握る。
以前より弱くなったその拳でも、決意を込めるには十分だった。
夢をあきらめても、その価値は変わらない。
医者になれなくても。
ルミエールを去っても。
身体が思うように動かなくても。
俺は、俺だ。
夕陽が差し込む部屋の中で、静かに息を吐き、俺は明日へ向かう覚悟を固めた。




