第154話 闘病手記 2〜気分転換〜
翌朝。
薬の錠剤が、喉の奥に重たく引っかかる。水を流し込み、ようやく胃へ落ちていく感覚を確かめた。苦味が舌の奥に残り、胸のあたりがじわりと重くなる。薬を飲むという行為ひとつで、今日も自分が「治療中の人間」であることを思い知らされる。
「なぁハヤト。気分転換にさ、ヒカリちゃんの撮影とかしたら?」
朝食の席で、テオが明るく言った。
俺はコップを持ったまま、一瞬反応が遅れた。
「撮影……?」
「そうそう。ほら、このビデオカメラ」
テオが差し出したそれは、見覚えのある機種だった。
そして――側面に入った亀裂も、歪んだフレームも、俺の記憶と一致していた。
床に叩きつけたのは、俺だ。
あの日、苛立ちと自己嫌悪に飲み込まれ、衝動のまま投げつけた。
自分の無力さに腹が立ち、何かを壊せば楽になる気がした。
結果、壊れたのは機械だけではなかった。
「ちぃっと壊れてるけどさ、こいつをこうして――」
テオは壊れてしまった部分を丁寧に外し、ネジを締め直していく。無駄のない手つきだった。
ルミエールアカデミーにいた頃、「機械クラッシャー」と呼ばれていた男とは思えない慎重さだ。
「ほい。まぁ、これで動くかどうかの保証はないけど、物は試しにさ」
その言葉に、俺は苦笑する。
壊したのは俺。
直そうとしているのはテオ。
その事実が、胸に小さな棘のように刺さる。
俺はカメラを受け取り、静かに電源を入れた。
ぶいぃぃん、と不安げな音。
画面が一度暗転し、ざらついたノイズが走る。
数秒後、映像が浮かび上がった。
「……動いた」
「だろ?」
テオが肩をすくめる。
俺は言葉を返さず、ただ小さく頷いた。
壊しても、直せるものがある。
その事実が、ほんのわずかに救いだった。
カメラをヒカリに向ける。
「ヒカリ。こっち向いて」
呼びかけると、ヒカリはぱっと振り向いた。
大きな瞳がこちらを捉え、小さな手をぱたぱたと振る。
「あー!」
柔らかな声。
朝の光が窓から差し込み、ヒカリの髪を淡く照らしている。
「ほら、ヒカリ」
ヒカリはよちよちと歩き出す。
まだ覚束ない足取り。転びそうになりながらも、俺を目指して進む。
一歩。
また一歩。
俺はその姿をカメラ越しに見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
ルミエールアカデミーにいた頃、感情を表に出すことを自ら禁じていた。
笑うな。
浮かれるな。
医師は常に冷静であれ。
感情を制御できない医師ほど危険な存在はない。
そう信じていた。
だが今、俺は医師ではない。
肩書きも、責任も、使命も、すべて置いてきた。
あるのは、目の前で笑う娘だけだ。
「よくやったな!」
俺はカメラを置き、ヒカリを抱き上げた。
くるりと回ると、ヒカリが高い声で笑う。
その笑い声が、胸の奥に溜まっていた重苦しい空気を押し出していく。
肩にのしかかっていた圧迫感が、ほんの少し軽くなる。
幻聴も、今は聞こえない。
午後。
孤児院の庭に軽快な音が響く。
「ハヤト! バドミントンしようぜ!」
テオがラケットを振る。年少の子どもたちがその周囲で歓声を上げていた。
正直、体はまだ本調子ではない。
立っているだけで脚がわずかに震える。薬の影響か、長く休んでいたせいか、思うように力が入らない。
それでも。
「少しだけな」
ラケットを受け取る。
グリップの感触が掌に馴染む。
「ほら、行ったぞ!」
羽根が舞う。
俺は大きく動かない。足を踏み出せば、きっとふらつく。
その場で最小限の動きでラケットを振る。
ぱしん、と乾いた音。
羽根が返る。
「おおー!」
歓声が上がる。
ベンチにはエレナが座り、ヒカリを膝に乗せていた。
「ハヤト、がんばれ!」
エレナの声が飛ぶ。
ヒカリもそれに合わせて、ぱちぱちと手を叩いている。
その光景を目にした瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
俺はここにいていいのだと、身体がようやく理解し始めている。
夕方、孤児院に戻るとテレビがついていた。
『ルミナス市ではルミエールアカデミーの解体を訴えるデモ隊が暴徒化し、学園としての機能はほとんど停止されーー』
映像に映る校舎。
見慣れた廊下。
自分が歩いた場所。
心臓が強く打つ。
戻らなければならないのではないか。
逃げたままでいいのか。
胸の奥で、責任という名の鎖が軋む。
エマが静かにチャンネルを変えた。バラエティ番組の楽しげな声が部屋中に響く。
何も言わない。
だがその目には、薄く涙が滲んでいた。
俺の揺らぎを、察したのだろう。
夜。
静まり返った部屋に、黒い思考が忍び寄る。
飛び降りたい衝動。
消えてしまえば楽になるという囁き。
ノックの音。
エレナがヒカリを抱いて立っていた。
「怖いなら、三人で寝ようか? また死にたくなったら引き止めてあげる」
軽く言う。
だが、その目は真剣だった。
俺は涙をこぼしながら頷いた。
狭いベッドに三人で横になる。
ヒカリが真ん中で、嬉しそうに体を弾ませる。
エレナはすぐに寝息を立て始めた。
ヒカリはなかなか寝つかず、布団の上でぴょんぴょんと跳ねる。
その様子を見ているだけで、胸を締めつけていた衝動が少しずつ弱まっていく。
ヒカリの小さな手が、俺の服を握る。
その温もりが、現実に繋ぎ止める。
飛び降りたいという声は、遠ざかる。
代わりに、穏やかな眠気が訪れる。
三人の呼吸が重なり、部屋に一定のリズムが生まれる。
夜の死神は、まだどこかにいる。
だが今夜は、距離を保っている。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
離れていく。
俺はその温もりの中で、静かな眠りに落ちた。




