第153話 闘病手記1 〜自殺衝動との闘い〜
いよいよクライマックスです。ここから先は、ハヤト自身の闘病記録として描きます。なので、基本会話少なめ、最終回まで手記と言った形をとります。
次の日から、俺は決まった時間に薬を飲むことになった。
朝、昼、夜。
時計の針に生活を預ける日々が始まった。
食卓の端に並ぶ小さな錠剤たち。
白、淡い桃色、わずかに光沢のある楕円形。どれも無機質で、感情を持たないはずなのに、じっとこちらを見ているように感じる。
精神薬はとにかく苦い。
口に含んだ瞬間、舌の上に広がるえぐみ。
粉が溶け出すあの一瞬が、何よりも嫌だった。
あまりの苦さに、自然と顔がしかめ面になる。顎が強張り、喉が拒否反応を起こす。身体が「異物だ」と訴えてくるのが分かる。
エマのハーブを湯に溶かし、テオ特製のチョコレートドリンクに混ぜて飲み込む。
甘さで包み込み、香りで誤魔化す。だが、苦味はしつこく舌の裏に残る。甘さの奥からじわりと顔を出し、俺を責め立てる。
吐き出したい衝動を、奥歯を噛み締めて堪える。
喉がひりつく。胃のあたりがじわりと熱を帯びる。
――飲め。
――飲まないと治らない。
自分の内側で、理性の声が命令する。
それは医師の声でも、誰かの声でもない。
ただ、生き延びようとする本能の残骸のような声だった。
その日、三回の服用を終えた。
たったそれだけのことなのに、ひどく疲れた。
自傷行為は治った。
少なくとも、手首に刃を当てる衝動は消えていた。
けれど、夜は違う。
布団に入っても眠れない。
瞼を閉じると、脳の奥がざわつく。思考が静まらない。暗闇の中で、心だけが覚醒している。
そして、死神が囁く。
頭の奥、耳ではなく、もっと内側。
甘い声。優しい声。理解者のような声音。
(誰もお前なんか必要ない)
(さっさとやめろ)
優しさに似せた刃だった。
あの声は怒鳴らない。命令もしない。
ただ、そっと肯定する。
「もう頑張らなくていい」と。
「楽になれ」と。
それがどれだけ危険な言葉か、俺は知っている。
以前、ルミエールアカデミーで小児患者を診ていた頃のことを思い出す。
病室の窓辺で、ある子が絵本を読んでいた。
痩せた指でページをめくり、目を輝かせて言った。
流れ星が流れ終わる前に飛び降りに成功したら、天国に行けるんだって。
あの時の俺は、即座に本を取り上げた。
迷信だと叱った。
命を軽く扱うなと、強い口調で諭した。
あの子は泣かなかった。ただ、不思議そうな顔をしていた。
今になって、その言葉がやけに鮮明に蘇る。
「流れ星……か」
独り言が、暗い部屋に溶ける。
胸の奥に、奇妙な静けさが広がっていた。
絶望というより、空白に近い感覚。
俺は何気なく立ち上がり、その夜、孤児院の屋上へ上がった。
階段を一段ずつ踏みしめる。
足音がやけに大きく響く。
まるで誰かに見つけてほしいみたいだ、と自嘲する。
屋上の扉を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。
冬の匂いがした。澄んだ空気。遠くの街の灯り。
見上げると、満天の星々が広がっていた。
ルミエールアカデミーにいた頃は、こんな星を見る暇などなかった。
カルテと研究資料、治療計画に追われ、空を見上げる余裕もなかった。
「綺麗だ」
驚くほど素直な言葉が零れた。
その瞬間、火球のような流れ星が、力強く夜空を横切った。
一瞬だった。
だが、確かに見た。
(流れ星が流れきる前に飛び降りに成功したら、天国にいける)
あの子の声が、記憶の底から浮かび上がる。
あの時は迷信だと切り捨てた。
だが今の俺には、現実味を帯びて聞こえる。
屋上の柵に手をかける。
金属の冷たさが掌に伝わる。
冷静だった。驚くほど。
柵を跨ごうと足を上げる。
(どうせ俺一人が消えたところで誰も)
思考は淡々としていた。
涙は出なかった。
俺が死んだ後のことも考えなかった。
未来が、真っ白だった。
その瞬間。
「ハヤト! 何してるの!」
声が夜を裂いた。
振り向くより早く、服を強く引かれる。
小さな手。震える指。
エレナだった。
涙で濡れた瞳。
必死の形相。
「わたしの病気はどうなるの? ヒカリの未来はどうなるの?」
矢継ぎ早の問い。
怒りと悲しみと恐怖が混ざった、不思議な声だった。
責めているのに、縋っている。
「エレナ、ごめん。でも、自分では止められないんだ」
口から出た言葉は、本音だった。
俺は自分が何をしているのか、分からなかった。
ただ、流れに乗るように、柵を越えようとしていた。
「わたしがいる! ヒカリも! 1人じゃない。わたしたちを信じて!」
その言葉が胸に突き刺さる。
罪悪感が、一気に溢れた。
俺は医者だ。
命を守る側の人間だ。
なのに、自分の命すら守れない。
弱々しい力で、エレナを抱きしめる。
細い身体。温もり。鼓動。
生きている。
俺も、彼女も。
星空の下で、しばらく動けなかった。
さっきまで甘く囁いていた死神の声が、遠ざかっていく。
代わりに残ったのは、ひどい疲労と、鈍い後悔。
俺はあと何回、こんな苦しい夜を過ごさなければならないのか。
薬は本当に効くのか。
この闘いは終わるのか。
分からない。
ただ一つ分かるのは、俺が一人ではないという事実だ。
それでも、満天の星々は容赦なく輝いていた。
嘲笑うようにも、祝福するようにも見える光。
その下で、俺はようやく、柵から手を離した。
まだ終わらない。
終われない。
闘病は、始まったばかりだ。




