第15話 潔白の炎、名を呼ぶなかれ
出席停止が言い渡されてから、どれほど時間が経ったのか──時計を見る気さえ起きなかった。
獅子寮の自室は昼でも薄暗い。
カーテンの隙間から入る光は細すぎて、部屋を照らすにはあまりに心許ない。机に散らばったノートの白さだけが浮き、俺の気持ちとは裏腹に時間だけが進んでいるように見えた。
ベッドに腰を下ろし、膝を抱え込む。
情けない姿だと思う。でも、立ち上がる気力がない。
胸の奥に溜まった鉛みたいな重さが、体を沈めていく。
──エレナのあの声が、耳に張り付いたままだ。
「私がみんなを殺す──」
彼女の震える声、泣き腫らした目、荒くなる呼吸。
自分を責め、過去に縛られ、逃げ場のない場所で泣いていたあの姿。
あの瞬間の記憶に触れるだけで、胃の奥がきゅうっと縮む。
俺は何をしていた? 何を守れた?
医療を志しながら、あの子の苦しみを止められなかった。
ただ傍にいただけだ。
それがどれほど無力だったか、思い知るだけだった。
六歳の年齢差が、今ほど重く感じたことはない。
彼女にとって、俺は何者だ。
好きだと言えば壊れるかもしれない。
言わなくても、距離を取れば傷つけるかもしれない。
答えはどこにもない。ただ、胸が痛い。
壁を殴った時にできた傷がずきりと訴えた。
痛みがあることで、なんとか自分を保っていた。
外からは学生たちの笑い声。
日常は回っているのに、俺だけが立ち止まっている。
「……クソ」
唇から漏れた声は情けなくて、でも止められなかった。
未来を奪われた、という感覚があった。
努力してきたもの、積み重ねた知識、全てエレナのために使うはずだったのに──
濡れ衣ひとつで、あっさり崩される。
許せるわけがない。
その時、静かにノックが響いた。
「ハヤト、いるか?」
テオの声だ。
続いてエマの声。
「開けて。話があるの」
体は重いままなのに、心臓だけが急に早く動き始めた。
ドアを開けると、二人は息を切らし、必死の形相で立っていた。
エマの瞳には、強く固まった決意の光。
テオは汗を拭う暇もないほど走ってきたらしい。
「ハヤト、やっと……やっと動いたわ。私たちが証明したの」
その一言が落ちてきた瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。
テオが拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「マルクスのクソ野郎、全部バレた」
二人の言葉を聞きながら、頭の中が白くなった。
その間、二人は休む間もなく奔走していたという。
エマは“疑惑のメモ”に使われたインクの成分を徹底的に調べ上げ、マルクスの実家で扱うものだと証明した。
テオは監視カメラの死角、証言の矛盾、試験会場の動線──ありとあらゆる角度から不正行為の痕跡を拾い上げた。
その報告に複数の教授が同意し、ついに調査委員会が動いた。
「……お前ら、ほんと……」
言葉が詰まる。
感謝より先に、胸の奥が熱くなり、視界が揺れた。
俺は部屋に閉じこもって、ただ怯えていた。
二人は、俺のことを信じ、走り続けてくれた。
この友情がなかったら、今も闇の中にいたに違いない。
しかし──真相はもっと深刻だった。
マルクス一派は、エレナの既往歴データの一部に不自然なアクセスを繰り返し、噂の火種になる情報を流していた可能性が高いという。
彼女の不安を煽るような匿名投稿も、同じルートから行われていた。
エレナの涙、崩れ落ちるような絶望。
全部“誰か”が仕組んだ可能性がある。
「……ふざけるなよ」
思わず声が震えた。
怒りというより、悔しさだ。
彼女を追い詰めたのが病気だけではないとしたら──許せるわけがない。
教授会は俺の“カンニング疑惑”を正式に撤回。
答案は満点として認められ、寮には加点が入った。
蛇寮側には厳しい処分が下され、学内は騒然としているらしい。
「これで……また、一緒にやれるわね」
エマが微笑む。
その笑顔に救われたはずなのに──
胸の中には、奇妙な虚しさが残った。
疑惑は晴れた。
未来も戻った。
それでも、何も解決していない気がする。
エレナが抱える傷。
彼女の心に染みついた恐怖。
泣きじゃくりながら俺にすがった細い手。
俺は、彼女の何を救えている?
夕陽が窓から差し込み、部屋を赤く染める。
その光に照らされながら、俺は胸の奥で静かに誓った。
もう二度と、あの子をひとりで泣かせない。
誰かが仕組んだ悪意や、過去の影に押し潰されるのを見ているだけなんて、絶対にしない。
俺が守る。
そのために医療を学んでいるのだから。
揺れる夕陽の中、初めて少しだけ前を向けた気がした。




