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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

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第144話 たった1人の味方

「おい、どこまで行くんだよ。」


 俺はアキトの背中を追いながら、ルミエールアカデミーの奥へと進んでいた。

 人気のない廊下を抜け、非常灯だけが点る階段へ入る。足を踏み出すたび、地上の温度が少しずつ遠ざかっていく。


 地下の空気は冷たく、乾いていた。

 肌を刺すような冷気が首元から忍び込み、背筋をひやりと撫でる。照明に引き延ばされた俺たちの影が、床に歪んで揺れていた。その形はどこか人間らしくなく、この先に待つものを暗示しているようにも見える。


「もう少しだよ。」


 アキトは振り返りもせずに言った。


「あそこは僕だけの秘密の部屋なんだ。」


 秘密、という言葉に胸がざわつく。

 この学園には、表と裏がある。表は秩序と理想、裏は沈黙と圧力。その裏側に、確実に足を踏み入れている感覚があった。


 吐く息が白くなる。

 冷気が肺に入り込み、思考まで冷やされていく。


「……着いたよ。」


 アキトが足を止めた。

 目の前には、分厚い鉄のドア。業務用の無機質なそれは、ここが“学生の立ち入る場所ではない”ことを雄弁に語っている。


 軋む音を立て、ドアが開いた。


 中は、異様だった。


 壁一面を覆うアニメのポスター。

 棚という棚に並べられたキャラクターグッズ。

 フィギュア、タペストリー、限定版の箱——どれも丁寧に手入れされ、無秩序なようでいて、確かな熱量を感じさせる配置だった。


「う……わ。」


 思わず、声が漏れる。

 人の趣味を否定するつもりはない。ないが、この地下空間とあまりにも不釣り合いだった。


「ここ、学園の地下だよな……?」


「そうだよ。」


 アキトは平然と頷く。


「人が来ない場所って、落ち着くんだ。」


 軽い言葉とは裏腹に、その目は冗談を言っている色ではなかった。

 この部屋は、彼にとっての避難所なのだろう。


「で、ちょっとこれを見てよ。」


 アキトは部屋の中央に置かれた大型モニターの前へ移動し、キーボードを叩いた。

 画面に映し出されたのは、例のインタビュー映像。


 ——違和感だらけの、あの映像。


「拡大する。」


 画面が引き伸ばされ、女性の上半身が大きく映し出される。


「なんかおかしいと思わないかい? 君なら。」


 俺は無意識に呼吸を浅くし、映像に集中した。

 感情を切り離し、観察者になる。医学生として、これまで何度もやってきたことだ。


 額に滲む汗。

 室温を考えれば、明らかに過剰だ。


 血の気の引いた頬。

 照明の問題ではない。皮膚の色調そのものが不自然に白い。


 唇が、わずかに震えている。

 発声時、言葉の区切りが不自然に途切れているのも分かる。


 そして何より——視線。


 質問されるたび、カメラの外へ一瞬だけ逸れる。

 まるで、そこに“確認すべき何か”が存在しているかのように。


 ——恐怖だ。


「これは……」


 言いかけた俺の声を、アキトが遮った。


「やっぱり、気づいたね。」


 彼は短く頷く。


「脅迫を受けている人間に見られる反応だ。特に、視線の逃げ方と発汗の部位が決定的だ。」


 俺の中で、点と点が繋がっていく。


 誰かが、この女性を脅している。

 選択肢を奪い、恐怖で縛り、嘘を語らせている。


 ——最低だ。


 医学を学ぶ者が。

 人の身体と心を知る立場の人間が、やっていいことじゃない。


 怒りが込み上げる。だが、それだけでは足りない。

 感情は、証拠にはならない。


「アキト。」


 俺は画面から目を離さずに言った。


「映像だけじゃ弱い。

 これは“それっぽい”って話でしかない。推測じゃなく、医学的に裏付けられる証拠が必要だ。」


「だと思った。」


 アキトは迷いなく答える。


「地下資料庫に行こう。」


△△△


 旧アーカイブ室。

 埃を被った棚が整然と並び、時間が止まったような空気が漂っている。


 アキトは慣れた手つきで棚を探り、一冊のマニュアルを引き抜いた。


「新入生用の診断マニュアルだ。

 古いけど、基礎は変わらない。」


 ページを捲る。


『強制・脅迫下における身体的反応』


 そこに並ぶ箇条書きが、胸に突き刺さる。


・心拍数の異常な上昇

・手掌および前額部の発汗

・瞬目回数の変化

・動作のぎこちなさ

・発声の震え


 映像の女性と、完全に一致していた。


「……これだ。」


 確信が、静かに広がる。

 同時に、抑え込んでいた何かが音を立てて崩れた。


 同じ医学を学びながら。

 恐怖を利用し、人を操る。

 患者を守るはずの立場で。


 俺は衝動のまま、机の上に置かれていた人形を叩き潰していた。


 乾いた音が、静まり返った資料室に響く。


「あ……僕のリリカ人形。」


 アキトが肩を落とす。


「ごめん。」


 本心だった。

 だが、謝罪だけでは収まらない怒りが、まだ胸の奥に残っている。


「いいよ。」


 アキトはすぐに顔を上げた。


「それより、次だ。」


 彼の目は、もう迷っていなかった。


「公には出せない。でも——学園の“内側”なら、この証拠は効く。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、かすかな熱が灯った。


 この学園で。

 この閉ざされた場所で。


 たった一人でも、味方がいる。


 それだけで俺は、まだここに立っていられる。

 まだ、息をしていていいと思えた。




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