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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

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第143話 透明な言葉の刃

誰が、こんなことを。


 獅子寮の自室は、夜の底に沈んでいた。

 照明は落とし、タブレットの画面だけが淡く光っている。その冷たい光が、机や床に影を落とし、部屋を必要以上に広く、孤独に見せていた。


 俺は、ルミエールアカデミー公式Xアカウントの追跡ログを、何度も何度も遡っていた。

 投稿時刻、拡散速度、引用の文言。

 医療記録を精査するときと同じ目で、情報を一つひとつ拾い上げる。


 ――ルミエールアカデミーの偽善者三人組

 ――医学部六年 ハヤト・キサラギ 医療ミス 学園を脅して隠蔽

 ――医学部六年 テオ・アルト 無神経な医学オタク

 ――二年次公開ディベート 冷酷、患者軽視


 言葉の並びは違っても、意味は同じだった。

 事実を語るふりをしながら、印象だけを植え付ける。

 それがどれほど残酷な行為か、書いた本人は理解していない。あるいは、理解したうえでやっている。


 隣のベッドから、ヒカリの寝息が聞こえた。

 小さく、規則正しい呼吸。

 それは俺が知っている「守るべき現実」そのものだった。


 この静けさが、壊されようとしている。


 スクロールを続ける指先に、じわりと汗が滲む。

 証拠はない。

 医学的事実も、診療記録も、何一つ示されていない。

 だが「疑惑」という言葉だけが、真実の顔をして拡散していた。


 言葉は透明だ。

 触れない。

 汚れない。

 それでいて、確実に人を切り裂く。


 そんな言葉の刃が、俺たちに向けられている。


 ふと、一つの動画が目に留まった。

 再生数は多くない。だが、引用と切り抜きによって、歪んだ形で広がっている。


 ――ルミエールアカデミー医学部、ハヤト・キサラギ先生に診断を受けた患者に直撃インタビュー!


 嫌な予感がした。

 それでも、再生を止めることはできなかった。


 画面の中の女性は、言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、やがて曖昧な笑みを浮かべた。


 ――「あの先生、本当に怖かったわ。冷静すぎて……威圧感があったの」


 それだけだった。

 診断内容も、治療の経過も、結果も語られない。

 残されたのは、「怖かった」という主観だけ。


 医師として、それがどれほど危うい切り取りか、嫌というほど分かっている。

 冷静であることは、感情を排した判断を下すためだ。

 だがその冷静さは、時に「冷酷」という言葉にすり替えられる。


 続いて、学園側の公式コメントが流れる。


 ――「当該件につきましては現在調査中であり、詳細な説明は差し控えさせていただきます……」


 逃げの言葉だ。

 だが沈黙は、いつだって誤解の味方をする。


 俺のことが悪く言われるのは、いい。


 ――焦らない

 ――怒らない

 ――倒れない


 それが、俺の信条だった。

 焦れば判断を誤る。

 怒れば患者を傷つける。

 倒れれば、命を預かる資格を失う。


 医師とは、そういう職業だ。


 だが、これは――。


 俺一人の問題ではない。

 テオの名がある。

 エマの努力が、踏みにじられている。


 怒りが、身体の奥から湧き上がる。

 抑え込んできた感情が、制御を振り切って噴き出した。


「……クソッ!」


 叫びと同時に、腕が動いた。

 タブレットが壁に叩きつけられ、乾いた音が部屋に響く。

 衝撃で画面が一瞬だけ光り、すぐに沈黙した。


 呼吸が乱れる。

 心拍が速い。

 これはダメだ――医師として、最悪の状態だ。


 そのとき、ドアをノックする音がした。


 テオか。

 エマか。


 会いたくなかった。

 だが、逃げるわけにもいかず、俺はドアを開ける。


 立っていたのは、見知らぬ男だった。

 ルミエールアカデミーの制服。

 それだけが、彼の所属を示している。


「随分、苦戦しているみたいだね」


「……誰だ?」


「鹿寮のアキト。こっちはリオ」


 アキトは少し丸い体型で、制服の下に派手なアニメTシャツを着ている。

 リオは静かに一礼し、何も言わずにこちらを見つめていた。


 ――いや、待て。

 制服の下にそれは、アウトだろ。


 思わず心の中で突っ込みを入れた瞬間、胸を焼いていた怒りが、わずかに冷める。

 感情というものは、実に脆い。


「派手にやったね」


 アキトは床に落ちていたタブレットを拾い上げ、画面を確認する。


「ほとんどがデマだ。発信源も、拡散経路も偏ってる」


 その口調には、確かな自信があった。


 本当に、信用していいのか。


「顔に出てるよ。分かりやすい」


 図星だった。

 感情を制御できない医師ほど、危険な存在はない。


 だが――。


 怒りを否定しても、事実は消えない。

 必要なのは、感情ではなく、証明だ。


「犯人の目星は?」


 俺は目を閉じ、呼吸を整える。

 声を低く、平坦に。


「……あいつしかいない。だが、証拠がない」


「なら、やることは一つ」


 アキトは即答した。


「医学的な証拠を集めよう。感情じゃ、誰も守れない」


 ――試験中止。

 ――自宅待機。


 次に、いつ現場へ戻れるかは分からない。

 だが、立ち止まっている時間は、確実に敵の味方になる。


 俺は、倒れない。

 透明な言葉の刃に、切られたままでは終わらない。

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