第142話 折れない理由
自宅待機。
その言葉を、俺はこれまで何度も聞いてきた。
感染症の疑いがある患者。
暴露の可能性がある医療者。
あるいは、調査が必要な事案。
だが、自分がその立場になるとは、正直思っていなかった。
試験会場から戻った部屋は、静かだった。
エアコンの低い駆動音と、時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
鞄を床に置き、上着を脱ぎ、椅子に腰かける。
身体は疲れているはずなのに、どこにも行き場がない。
——今日は、試験日だった。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
だが、それ以上は広がらない。
感情が途中で止まる感覚。自分でも不思議なくらい、冷静だった。
怒っていないわけじゃない。
落ち込んでいないわけでもない。
ただ、今ここで感情を暴れさせても、何も前に進まないと分かっているだけだ。
机に向かい、教科書を開く。
ページをめくる指先は、普段と変わらない。
内容も、頭には入ってくる。
それでも、どこか薄い膜を一枚挟んだような感覚があった。
——噂。
試験監督が使った、その言葉。
具体的な内容は告げられなかったが、想像はできる。
誰かが書いた文章。
誰かが切り取った過去。
誰かが、面白がって拡散した言葉。
医療の世界では、根拠のない情報がどれほど危険か、嫌というほど学んできた。
だが同時に、人は「正しさ」よりも「刺激」に引き寄せられることも、俺は知っている。
噂は、証明を必要としない。
疑いを植えつけるだけでいい。
昼を過ぎても、時間の感覚は曖昧だった。
集中できているのか、できていないのか、自分でも判断がつかない。
インターホンが鳴ったのは、そんなときだった。
一瞬、身体が強張る。
試験関係者か、病院か。
無意識に、最悪の想像をしてしまう。
だが、扉を開けると、そこに立っていたのはテオだった。
「よ。生きてるか?」
いつもと変わらない声。
それだけで、肺の奥まで空気が入る感覚がした。
「……どうした」
「どうしたじゃねぇよ。来るに決まってんだろ」
テオは靴を脱ぎ、勝手知ったる様子で部屋に入る。
手には紙袋。中から、温かい匂いがした。
「ちゃんと食ってねぇだろ。顔に書いてある」
「そんなことは——」
「ある」
即答だった。
テーブルに食事を並べながら、テオは俺をちらりと見た。
「なぁ、ムカつかねぇの?」
唐突な問いだった。
「……何がだ」
「全部だよ。
噂だの、待機だの、説明なしだの」
俺は言葉を探した。
だが、すぐに見つからなかった。
「ムカつくかどうかで言えば……ムカつく」
正直な答えだった。
「でも、それで声を荒げたら、俺が疑われてる理由を補強するだけだ」
テオは一瞬、黙った。
それから、深く息を吐く。
「ほんと、お前らしいな」
呆れたような、でもどこか誇らしげな声。
「でもさ、覚えとけ。
怒ること自体が悪いわけじゃねぇ」
箸を持つ手を止め、テオは真っ直ぐ俺を見た。
「お前が間違ってねぇってことまで、冷静に処理する必要はない」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
怒りを持ってはいけないわけじゃない。
ただ、怒りに支配されてはいけない。
それは、医療でも同じだ。
テオが帰った後、部屋は再び静かになった。
だが、さっきまでとは違う静けさだった。
夕方、スマートフォンが震える。
エマからの着信だった。
『今、話せる?』
「ああ」
通話越しの声は、落ち着いていて、無駄がなかった。
それが逆に、彼女が気を遣っていることを伝えてくる。
『今日のこと、聞いた』
「……早いな」
『病院は狭いの』
一拍置いて、彼女は続けた。
『ハヤト、あなたは今、何も間違ったことをしていない』
断定だった。
慰めでも、希望的観測でもない。
『私は、あなたが判断を誤る場面を見たことがない。
感情に流されず、必要な情報を集めて、最善を選ぶ』
それは、医療者としての評価だった。
『噂は、確認しない人のためのものよ。
でも、あなたを評価する人たちは、必ず確認する』
通話が切れたあと、俺はしばらくスマートフォンを見つめていた。
信じてもらえるということが、これほど心に重みを持つとは思わなかった。
夜。
再び机に向かう。
教科書の文字は、昼よりもはっきりと目に入ってくる。
頭の中が、少し整理されていた。
俺は、試験を止められた。
だが、医療者であることまで止められたわけじゃない。
噂は、人の評価を一時的に歪める。
だが、結果と過程は、必ず残る。
——噂よりも先に、救うものがある。
それを忘れない限り、俺は折れない。
布団に横になり、目を閉じる。
外は静かで、夜は深い。
試験は、まだ終わっていない。
そして、俺もまだ、終わっていない。




