第141話 噂よりも先に救うもの
三度目の国家試験が、正式に決まった。
通知の文面は事務的で、感情の入り込む余地はなかった。合否も、期待も、慰めもない。ただ「実施される」という事実だけが、淡々と並んでいる。
それを読み終えたとき、俺は自分が思っていたよりも落ち着いていることに気づいた。
嬉しい、という感情はなかった。怖い、という感情もない。代わりに胸の奥に残っていたのは、長い準備期間がようやく意味を持つ場所にたどり着いた、という静かな実感だった。
三度目だ。
一度目、家庭の事情と、二度目、交通事情での中止を越えて、ようやくここに立っている。
回り道をしたという自覚はある。だが、その回り道がなければ、俺は今ここにいない。
試験当日の朝、空は重たく曇っていた。
早すぎる時間に目が覚め、ベッドの上でしばらく天井を見つめた。心拍は安定している。呼吸も乱れていない。自分の状態を確認するのは、いつの間にか癖になっていた。
鞄の中身をもう一度確認する。受験票、筆記具、時計。
どれも揃っている。それ以上でも、それ以下でもない。
家を出ると、冷たい空気が頬を刺した。
受験生らしき人影が、駅へ向かって静かに歩いている。誰もが似たような顔をしていた。緊張と諦観が、同じ比率で混ざった表情だ。
俺は、いつも通りの歩幅で会場へ向かった。
祈ることも、最悪を想定することも、もうしない。ただ、やるべきことをやる。それだけだ。
試験会場の建物は、無機質だった。
何度も見てきた風景だが、今日は少し違って見える。これが最後かもしれない、という意識が、景色の輪郭をわずかに強めていた。
入口で受験票を差し出す。
試験監督が名前を確認し、視線を止めた。その一瞬が、妙に長く感じられた。
「……少し、こちらへ」
そう言われたとき、胸の奥で小さな音が鳴った。
嫌な予感というほど大げさなものではない。ただ、空気が一段冷えたのを感じただけだ。
案内されたのは、控室とは別の小さな部屋だった。
机と椅子、壁際の書類棚。外の音はほとんど聞こえない。
年配の試験監督が一人、書類に目を落としたまま口を開く。
「キサラギ•ハヤト君だね」
「はい」
名前を呼ばれただけなのに、背筋が自然と伸びた。
これから何が告げられるのか、分からない。だが、逃げる理由もない。
「君について、いくつか……良くない噂が出回っている」
噂。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で点が線につながった。
インターン受け入れの保留。
理由を説明されなかった沈黙。
周囲の、どこか距離を測るような視線。
ああ、そういうことか、と理解してしまった自分がいた。
「内容の真偽は、現在調査中だ。
ただ、国家試験という性質上、我々は慎重にならざるを得ない」
言葉遣いは丁寧だった。
だが、その丁寧さは、すでに結論が出ていることを示していた。
「今日は受験を見送ってもらう。
調査が終わるまで、自宅待機してほしい」
一瞬、言葉の意味を頭の中で反芻した。
今日、俺は試験を受けない。
ここまで来て、扉の前で足止めを食らう。
怒りは、すぐには湧かなかった。
代わりに、胸の奥に重たいものが沈んでいく感覚があった。
理不尽だ、とは思った。
だが、それを口にする気にはなれなかった。
——理由が曖昧なときほど、感情は邪魔になる。
医療の現場で、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。
状況が不明確なときに感情で動けば、判断を誤る。それは、患者に対しても、自分自身に対しても、取り返しのつかない結果を生む。
「……分かりました」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていたことに、少し驚いた。
試験監督は、俺が抗議しないことに、わずかに目を瞬かせた。
何か言葉を続けるかと思ったが、彼は何も言わなかった。
それ以上の説明は、用意されていないのだろう。
部屋を出ると、廊下の向こうに試験会場があった。
受験生たちが、静かに席へ向かっていく。誰もこちらを見ない。俺が今、試験を受けられない理由を、誰も知らない。
孤独だと思うべきなのかもしれない。
だが、俺はただ、事実を受け取っていた。
噂は、事実を必要としない。
確認も、責任も、順序もいらない。
だが、医療は違う。
人の体に触れるということは、人生に触れるということだ。
不確かな情報で判断することは、許されない。
今の俺にできることは、騒がないこと。
余計な言葉を足さないこと。
そして、間違えないことだ。
建物の外に出ると、冷たい空気が肺に入り、頭が冴えた。
曇っていた空の隙間から、わずかに光が差している。
試験は、まだ終わっていない。
俺の時間も、ここで止まるわけじゃない。
そう思い、俺はゆっくりと歩き出した。




