表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

140/144

第140話 倒れても、立ち上がる

ヒカリが立ったのは、たぶん偶然だ。


 そう思わないと、落ち着かなかった。

 成長とか、節目とか、そういう言葉を当てはめると、期待してしまう。期待は、外れたときに勝手に失望に変わる。まだ一歳そこそこだ。意味なんて分からなくていい。


 俺はテーブルに肘をついて、スマートフォンを構えていた。

 意識して撮ろうとしたわけじゃない。最近は、気づくとカメラを起動している。寝返りを打っただけでも、変な声を出しただけでも、「今」を残しておきたくなる。


 部屋は静かだった。

 午前中の光がカーテン越しに広がって、床に薄い影を作っている。テレビは消したまま。洗濯物の乾く音なんて聞こえるはずもないのに、妙に生活の気配だけがあった。


「……あ」


 声が漏れたのは、画面越しにヒカリの姿を見たからだ。

 ソファにつかまって、よろよろと立ち上がっている。足が小刻みに震えていて、今にも崩れそうなのが分かる。


 手を離した。


 一瞬だった。

 重力に引っ張られるみたいに、体が下に落ちて、尻もちをつく。


 思ったより軽い音だった。

 ヒカリは泣かなかった。泣かない代わりに、床をじっと見つめている。何が起きたのか、理解しようとしているみたいだった。


 俺は反射的に立ち上がりかけて、止まった。

 手を出すべきか、見ているべきか。

 医療の現場では、判断を先延ばしにするのは悪だ。でも、育児では違う。たぶん。


 正解は、誰も教えてくれない。


 ヒカリは両手を床につけた。

 掌に力を入れて、体を前に倒す。動きはぎこちなくて、効率なんて考えていない。ただ、もう一度立ちたいという意思だけが、はっきり伝わってくる。


 立つ。

 ふらつく。

 そして、また転ぶ。


 二度目は、さすがに眉を寄せた。

 泣く一歩手前の顔。でも、声は出ない。


「……ヒカリ」


 名前を呼ぶと、少し遅れてこっちを見た。

 その一瞬で、またソファに手を伸ばす。


 俺はカメラを止めなかった。

 冷たい父親だと思われるかもしれない。でも、これは残しておきたかった。


 転ぶ瞬間じゃない。

 立ち上がろうとする、その途中を。


 三度目は、ほんの少し長く立てた。

 ヒカリの表情は、嬉しそうでも誇らしげでもない。ただ必死だった。世界と交渉しているみたいな顔。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 二回目の国家試験は、交通事情で中止になった。

 俺の努力とは関係のない理由で、すべてが止まった日だ。


 朝早く家を出て、会場に向かって、途中で引き返した。

 無駄になったわけじゃない。そう頭では分かっていても、体は正直だった。どこにも力が入らない感覚。前に進めない感覚。


 ヒカリは、転んでも理由を探さない。

 社会も、制度も、運の悪さも知らない。ただ、立ちたいから立つ。


 もう一度、立った。

 今度は、俺の方へ一歩だけ足を出す。


「……すげえな」


 思わず、そう言っていた。


 意味は伝わっていない。

 それでも、ヒカリはまた転んだ。今度も泣かない。


 俺はようやくスマートフォンを下ろした。

 抱き上げると、ヒカリは安心したみたいに息を吐く。その重みが、確かに腕に残る。


 倒れることは、失敗じゃない。

 立ち上がるのをやめなければ。


 そんな当たり前のことを、

 俺はいつの間にか、自分にだけ適用しなくなっていたのかもしれない。


 動画を、もう一度再生する。

 画面の中で、ヒカリが転び、立ち、また転ぶ。その全部が、ちゃんと映っている。


「……大丈夫だ」


 誰に向けた言葉かは分からない。

 ヒカリか、俺か、その両方か。


 腕の中で、ヒカリがもぞもぞと動いた。

 また床に降りたがっている。次は、もう少し上手くやれると信じている顔だ。


 俺は、その背中を見守る。


 倒れないでくれ、とは思わない。

 倒れても、また立ち上がれることを、もう知っているから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ