第140話 倒れても、立ち上がる
ヒカリが立ったのは、たぶん偶然だ。
そう思わないと、落ち着かなかった。
成長とか、節目とか、そういう言葉を当てはめると、期待してしまう。期待は、外れたときに勝手に失望に変わる。まだ一歳そこそこだ。意味なんて分からなくていい。
俺はテーブルに肘をついて、スマートフォンを構えていた。
意識して撮ろうとしたわけじゃない。最近は、気づくとカメラを起動している。寝返りを打っただけでも、変な声を出しただけでも、「今」を残しておきたくなる。
部屋は静かだった。
午前中の光がカーテン越しに広がって、床に薄い影を作っている。テレビは消したまま。洗濯物の乾く音なんて聞こえるはずもないのに、妙に生活の気配だけがあった。
「……あ」
声が漏れたのは、画面越しにヒカリの姿を見たからだ。
ソファにつかまって、よろよろと立ち上がっている。足が小刻みに震えていて、今にも崩れそうなのが分かる。
手を離した。
一瞬だった。
重力に引っ張られるみたいに、体が下に落ちて、尻もちをつく。
思ったより軽い音だった。
ヒカリは泣かなかった。泣かない代わりに、床をじっと見つめている。何が起きたのか、理解しようとしているみたいだった。
俺は反射的に立ち上がりかけて、止まった。
手を出すべきか、見ているべきか。
医療の現場では、判断を先延ばしにするのは悪だ。でも、育児では違う。たぶん。
正解は、誰も教えてくれない。
ヒカリは両手を床につけた。
掌に力を入れて、体を前に倒す。動きはぎこちなくて、効率なんて考えていない。ただ、もう一度立ちたいという意思だけが、はっきり伝わってくる。
立つ。
ふらつく。
そして、また転ぶ。
二度目は、さすがに眉を寄せた。
泣く一歩手前の顔。でも、声は出ない。
「……ヒカリ」
名前を呼ぶと、少し遅れてこっちを見た。
その一瞬で、またソファに手を伸ばす。
俺はカメラを止めなかった。
冷たい父親だと思われるかもしれない。でも、これは残しておきたかった。
転ぶ瞬間じゃない。
立ち上がろうとする、その途中を。
三度目は、ほんの少し長く立てた。
ヒカリの表情は、嬉しそうでも誇らしげでもない。ただ必死だった。世界と交渉しているみたいな顔。
胸の奥が、きゅっと縮む。
二回目の国家試験は、交通事情で中止になった。
俺の努力とは関係のない理由で、すべてが止まった日だ。
朝早く家を出て、会場に向かって、途中で引き返した。
無駄になったわけじゃない。そう頭では分かっていても、体は正直だった。どこにも力が入らない感覚。前に進めない感覚。
ヒカリは、転んでも理由を探さない。
社会も、制度も、運の悪さも知らない。ただ、立ちたいから立つ。
もう一度、立った。
今度は、俺の方へ一歩だけ足を出す。
「……すげえな」
思わず、そう言っていた。
意味は伝わっていない。
それでも、ヒカリはまた転んだ。今度も泣かない。
俺はようやくスマートフォンを下ろした。
抱き上げると、ヒカリは安心したみたいに息を吐く。その重みが、確かに腕に残る。
倒れることは、失敗じゃない。
立ち上がるのをやめなければ。
そんな当たり前のことを、
俺はいつの間にか、自分にだけ適用しなくなっていたのかもしれない。
動画を、もう一度再生する。
画面の中で、ヒカリが転び、立ち、また転ぶ。その全部が、ちゃんと映っている。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉かは分からない。
ヒカリか、俺か、その両方か。
腕の中で、ヒカリがもぞもぞと動いた。
また床に降りたがっている。次は、もう少し上手くやれると信じている顔だ。
俺は、その背中を見守る。
倒れないでくれ、とは思わない。
倒れても、また立ち上がれることを、もう知っているから。




