第139話 試験も大事だが、父親として娘の成長を俺は見逃さない
朝の光は、思っていたよりも静かだった。
カーテンの隙間から差し込むそれは、机の上に広げた国家試験の問題集を、ただ淡々と照らしている。
俺は椅子に腰掛けたまま、同じページを開き続けていた。
内容は理解している。解説を読めば、なぜその選択肢が正解なのかも分かる。それなのに、ページをめくる指が、どうしても動かなかった。
理由は分かっている。
同じ部屋の中で、ヒカリが起きているからだ。
意味のない声を出し、床に置いた玩具を叩き、時々こちらを見ては、何かを訴えるように笑う。その一つ一つの仕草が、問題集よりもずっと強く、俺の意識を引き寄せていた。
試験は大事だ。
それは、今さら言葉にするまでもない。
ここまで積み重ねてきた時間も、努力も、この一冊の中に詰まっている。ページを閉じれば、それらすべてから目を逸らすことになる気がして、俺は問題集を開いたままでいた。
けれど、この部屋には、もう一つ、別の時間が流れている。
それは、待ってくれない。
ヒカリが、昨日までは出来なかった動きを見せたのは、その時だった。
よろけながらも、自分の足で立とうとする。
成功したとも、失敗したとも言えない、ほんの数秒の出来事。
それでも、確かに昨日とは違っていた。
胸の奥が、わずかにざわつく。
俺は反射的にスマホを手に取っていた。
考えるより先に、体が動いた。
この瞬間を、どこかに残しておきたいと思った。
誰かに見せるためじゃない。
自慢したいわけでもない。
ただ、今日のヒカリを、今日のまま残したかった。
録画を開始する。
画面の中で、ヒカリは相変わらず不安定な動きを繰り返している。
少し距離を取る。
構図を整える。ピントを合わせる。
そうしているうちに、俺は気づいてしまった。
画面越しに見るヒカリと、さっきまで直接見ていたヒカリが、少しだけ違って見えることに。
画面の中のヒカリは、「記録される存在」だ。
一方で、目の前にいるヒカリは、ただ俺の娘として、今ここにいる。
その差が、思っていた以上に大きい。
俺は父親としてヒカリを見ているはずなのに、
同時に、どこかで観察者になっている。
その事実が、胸の奥に小さな引っかかりを残した。
ヒカリが一歩踏み出し、バランスを崩した。
体が前に傾く。
次の瞬間、俺はスマホを下げていた。
迷いはなかった。
抱き上げると、ヒカリは一瞬驚いた顔をして、それからすぐに笑った。
その体温と重みが、腕の中にしっかりと伝わってくる。
録画は、途中で止まっている。
ヒカリを抱えたまま、俺はしばらくその場に立ち尽くした。
転ばなかったことへの安堵と、記録が中途半端になったことへの理解が、同時に押し寄せてくる。
もう一度撮り直せば、もっと綺麗な映像が残るだろう。
そうすれば、成長の瞬間として、分かりやすい形になる。
それでも、スマホを構え直すことはしなかった。
今この瞬間は、撮り直せない。
ヒカリは、もうさっきのヒカリじゃない。
そのことを、俺ははっきりと理解していた。
ヒカリを床に下ろし、俺は机に戻る。
問題集は、朝と同じページを開いたままだ。
時間だけが進み、ページは進んでいない。
それでも、不思議と焦りはなかった。
試験は、待ってくれる。
少なくとも、日程という意味では。
だが、ヒカリの成長は違う。
昨日と今日の差は、二度と埋まらない。
夜。
ヒカリが眠り、部屋が静まり返った頃、俺はスマホを手に取った。
昼に撮った、短い動画を再生する。
途中で終わる、完璧とは程遠い映像。
それでも、そこには確かに、今日のヒカリがいる。
俺はその映像を、消さなかった。
国家試験は、また受けられる。
けれど、この一日は、もう二度と戻らない。




