第138話 宙ぶらりんの時間
獅子寮の自室に戻った瞬間、妙な感覚に包まれた。
朝、出ていった時と何も変わっていないはずなのに、部屋が少しだけ広く感じる。音が少ない。時間が、途中で止まってしまったみたいだった。
上着を脱ぎ、椅子に掛ける。
バッグを床に置く。
たったそれだけの動作に、やけに間が空く。
スマホを見る。
通知は、ない。
分かっている。
すぐに連絡が来るわけじゃない。
それでも、画面を更新してしまう。
指が勝手に動く。
延期。
その言葉だけが、頭の中に残っている。
いつになるのか。
数日後なのか、数週間後なのか。
あるいは、もっと先か。
何も分からないまま待つ、という状態が、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
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ヒカリは、すっかり元気になっていた。
昼前には熱も下がり、いつもの調子で話しかけてくる。その様子を見て、胸の奥が少しだけ緩む。
この子にとって、今日はただの一日だ。
俺の中で起きた出来事とは関係なく、時間は進んでいる。
それでいい。
それが、救いでもあった。
⸻
昼過ぎ、スマホが震えた。
エマからのメッセージだった。
『どうだった?』
短い一文。
それだけで、向こうが状況を察しているのが分かる。
『中止になった』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『……そっか』
『今、話せる?』
少し迷ってから、『大丈夫』と返す。
その直後、テオからも連絡が入った。
『聞いた。家にいるか』
『いる』と返すと、
『じゃあ、寄る』とだけ返ってきた。
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二人が来たのは、夕方だった。
エマとテオは一緒に来たけれど、必要以上に距離が近いわけじゃない。自然に並んで立っている、その距離感が、この二人らしい。
付き合ってはいる。
でも、何かを誓い合っているわけじゃない。
それでも、互いの立ち位置ははっきりしている。
エマは、部屋に入るなり俺の顔を見て言った。
「……相当、疲れてるね」
「徹夜だった」
それだけ答えると、エマはそれ以上追及しなかった。ただ、静かに頷く。
テオは少し間を置いてから言った。
「延期、いつになるか分からないんだろ」
「ああ」
短く答える。
テオは腕を組み、天井を見上げた。
「一番、気持ちが落ち着かないやつだな」
その言葉に、思わず息が漏れた。
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「やり直しじゃないのが、余計にきつい」
エマが、ぽつりと言う。
「終わってない。でも、進んでもいない」
胸の奥を、正確に突かれた気がした。
落ちたわけじゃない。
でも、受かったわけでもない。
努力は無駄になっていない。
それでも、結果がない。
「……医者になるの、遠のいた気がしてさ」
気づいたら、そんな言葉が口をついて出ていた。
エマは、少しだけ視線を落としてから、はっきり言った。
「遠のいてないよ」
迷いのない声だった。
「止まってるだけ。しかも、それはハヤトのせいじゃない」
テオも頷く。
「準備してきた事実は消えない。むしろ、次に来た時のために残ってる」
⸻
テオは俺を見て、続けた。
「逃げなかっただろ」
「……」
「行ける手段を探して、来た。それだけで十分だと思うけどな」
評価、という言葉が頭をよぎる。
合否じゃない。
点数でもない。
姿勢。
選択。
立ち止まらなかったこと。
エマが、少し柔らかい声で言った。
「私たちは、ちゃんと見てるよ」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
励まされている、というより、隣に立ってもらっている感覚だった。
⸻
夜になり、二人が帰る時間になる。
玄関で、エマが立ち止まる。
「延期がいつになっても、また全力でやるんでしょ」
「ああ」
「それでいい」
そう言って、エマは小さく笑った。
テオは靴を履きながら、軽い調子で言う。
「白衣、似合うと思うぞ」
冗談めいた言い方だったけど、本気なのは分かった。
二人が帰ったあと、部屋はまた静かになった。
でも、朝とは違う静けさだった。
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スマホを見る。
通知は、まだ来ていない。
延期がいつになるかは分からない。
不安が消えたわけでもない。
それでも。
俺は、立ち止まってはいない。
準備は、もうできている。
あとは、呼ばれるのを待つだけだ。
医師になる。
その日がいつ来ても、俺は行く。
そう決めて、もう一度、机に向かった。




