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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

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第137話 試験は、始まらなかった

 夜は、まだ終わっていなかった。


 机の上に広げたノートは、何度も折り目がつき、角が丸くなっている。ページをめくるたびに、紙の擦れる音がやけに大きく聞こえた。静かな部屋の中で、その音だけが浮いている。


 もう覚えているはずの内容だ。

 何度も解いた問題だ。

 それでも、目は自然と文字を追ってしまう。


 分かっている。

 今さら新しい知識が増えるわけじゃない。

 それでも手を止められないのは、不安よりも、覚悟の確認に近かった。


 時計を見る。午前三時。


 この時間になると、体の方が先に限界を訴えてくる。肩が重く、首の奥がじんと痛む。それでも、頭の中だけは不思議と冴えていた。


 二回目だからだ。


 前回の失敗が、今も体のどこかに残っている。結果を聞いた瞬間の感覚。耳鳴りのような音。周囲の声が遠ざかっていくあの感じ。


 ――今回は、違う。


 自分に言い聞かせる。

 逃げなかった。

 積み上げてきた。


 椅子から立ち上がり、床に敷いた毛布に腰を下ろす。横になるほどの時間はない。二十分だけ。アラームをセットして、壁にもたれた。


 目を閉じると、すぐに意識が沈んでいく。眠りは浅い。それでも、何も考えない時間が、ほんのわずかにあった。


 アラームが鳴る前に、目が覚めた。


 三時十八分。


 スマホを手に取って、アラームを止める。息を整える。体は重いが、頭は動く。悪くない。


 今回は、やれる。


 その感覚を、胸の奥で確かめるように、ゆっくり立ち上がった。



 身支度を整えながら、何度も確認する。受験票、身分証、筆記用具。全部揃っている。


 部屋を出る前に、ヒカリの様子を見に行く。


 布団の中で、小さな体が規則正しく上下している。昨夜、少し高かった熱は下がっていた。額に手を当てると、いつもの温度に近い。


 よかった。


 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 この子がいる。

 それだけで、俺は踏ん張れる。


 医師になる。

 この子を守るためにも。


 声に出さず、心の中で繰り返してから、静かに家を出た。



 外はまだ暗い。冷たい空気が肺に入ってくる。頭がはっきりする。


 駅に近づくにつれて、違和感が募っていった。


 人が多い。

 多すぎる。


 この時間帯の駅は、もっと静かなはずだ。なのに今日は、ざわざわしている。立ち止まってスマホを見つめる人、改札前で足を止める人、駅員に声をかけている人。


 電光掲示板が、赤く点滅していた。


【運転見合わせ】


 一瞬、意味が頭に入ってこない。


 まさか、今日?


 アナウンスが流れる。設備点検、復旧未定、再開の見込みなし。淡々とした声が、やけに遠く感じた。


 会場までは、ここから電車を乗り継いで一時間半。

 代替ルートを探す。別路線、徒歩移動、タクシー。


 どれも、同じことを考えた人たちで溢れていた。


 俺は、歩き出した。

 走る。


 間に合うかどうかは分からない。

 それでも、行かないという選択肢はない。


 準備はできている。

 やることは、全部やった。


 だから、あとは――行くだけだ。



 息が切れる。

 足が重い。


 それでも、止まらない。


 途中でスマホを見る。開始時刻が迫っている。焦りが胸に広がる。でも、焦っても意味はない。足を前に出すだけだ。


 会場に着いたとき、開始予定時刻はすでに過ぎていた。


 建物の前には、受験票を手にした人たちが集まっている。立ち尽くす人、壁にもたれる人、地面を見つめる人。


 誰も騒いでいない。

 その静けさが、異様だった。


 スタッフが慌ただしく行き来している。無線で何かを確認している様子。嫌な予感が、確信に変わっていく。


 やがて、マイクを持った係員が前に出た。


 「本日予定されておりました医師国家試験につきまして――」


 その一言で、空気が張り詰める。


 交通機関の大規模な乱れ。

 受験者の公平性。

 中止。


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


 中止?


 ざわめきが広がる。低い声、ため息、頭を抱える人。しゃがみ込む人。


 俺は、ただ立っていた。



 怒りは、なかった。

 誰かを責めたい気持ちも、湧いてこなかった。


 ただ、力が抜けた。


 徹夜で勉強したこと。

 削ってきた時間。

 二回目だからこそ積み上げてきた覚悟。


 それらが、一気に宙に浮いた気がした。


 俺は医師になる。

 その意思は、揺らいでいない。


 でも、その資格は、まだ俺の手の中にはない。


 誰のせいでもない。

 それでも、医師になる日は、確実に遠のいた。


 それが、重かった。



 会場を後にする。


 外では、運転再開を知らせる通知がスマホに届いていた。遅延、混雑、振替。今さらだ。


 歩きながら、ヒカリの顔を思い出す。


 あの子は、今日がどれほど大事な日だったか、分からない。

 それでいい。


 俺が背負えばいい。


 医師になる前に、こういう日がある。

 準備しても、どうにもならない日がある。


 それでも、立ち止まらない。


 俺は、白衣を着る。


 そう決めて、ゆっくり歩き続けた

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