第136話 それでも、次も呼ばれるということ
国家試験まで、残り一ヶ月を切っていた。
寮の自室で机に向かい、俺は問題集を解いていた。
赤ペンで丸を付け、次の設問へ進む。正答率は安定している。少なくとも、数字の上では合格圏内だ。
だが、胸の奥に、わずかなざらつきが残っていた。
勉強に集中しているはずなのに、
ふとした拍子に、術野の光景がよみがえる。
無影灯の白い光。
鉗子の感触。
モニターに映る、一定のリズム。
——現場が、頭から離れない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
自分でも、まだ判断がつかなかった。
その時、内線が鳴った。
短く、はっきりした音。
無駄のない呼び出し。
「キサラギ君。今、病院にいるか」
指導医の声だった。
「はい」
一瞬だけ、間が空く。
「再手術が入る。
前回と同じ患者だ。来られるか」
問題集から、自然と視線が離れた。
再手術。
それは、前回の手術が「終わった話」ではなかったことを意味する。
自分が関わった判断が、まだ経過の途中にあるということだ。
国家試験まで、あと一ヶ月。
本来なら、勉強を優先しても誰も責めない。
それでも。
「……向かいます」
答えは、ほとんど反射だった。
受話器を置き、白衣を手に取る。
胸の奥に、少し重たい感覚が広がる。
不安ではない。
だが、軽くもない。
呼ばれた理由を、俺は無意識に考えていた。
⸻
手術室に入ると、前回とは少し違う空気を感じた。
緊急性はあるが、切迫しきってはいない。
「術後二日目。発熱と腹部所見の悪化」
執刀医が淡々と説明する。
「CTで、縫合部近傍に限局性の液体貯留を認める。
縫合不全そのものは否定的だが、感染は疑わしい」
モニターに映し出された画像を、俺は食い入るように見た。
見覚えのある位置。
自分が針を通した場所の、すぐ近くだ。
胸の奥で、責任という言葉がはっきり形を持つ。
「キサラギ君」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「今回は、執刀には入らない。
だが、判断の補助に回ってもらう」
助手でも、見学でもない。
曖昧だが、意味のある立ち位置。
「画像を見て、どう思う」
俺は、少しだけ間を取った。
答えを探すためじゃない。
自分の中で、覚悟を固めるためだ。
「全開腹は避けるべきだと思います」
声は、思ったより落ち着いていた。
「縫合部は保たれている。
この段階で再開腹すると、侵襲が大きすぎます」
指先で、モニターを示す。
「局所ドレナージで対応できる可能性が高いです」
教科書に書いてある言葉じゃない。
前回の術野を知っているからこそ、出てきた判断だった。
沈黙。
モニターの心拍音だけが、一定のリズムを刻む。
「……同意する」
執刀医が短く言った。
「局所ドレナージで行こう」
決断は、早かった。
⸻
処置自体は、長時間にはならなかった。
だが、俺は一瞬たりとも気を抜かなかった。
この患者の経過には、
自分の名前が、すでに紐づいている。
失敗すれば、
「前回の手術に関わった学生」として、必ず言及される。
それを、怖いとは思わなかった。
ただ、軽く扱ってはいけないと、強く感じていた。
無事にドレナージが終わり、
患者のバイタルが安定する。
手術室を出たところで、指導医が足を止めた。
「キサラギ君」
「はい」
「国家試験が近いのは、承知している」
その一言で、続きを察した。
「それでも呼んだ理由、わかるか」
少し考え、俺は答えた。
「前回の手術内容と、術後経過を一番把握しているからだと思います」
「そうだ」
それだけだった。
だが、その短い肯定は、重かった。
評価されたから呼ばれたわけじゃない。
便利だからでもない。
——経過を引き受けられる人間だからだ。
学生として、それ以上の理由はない。
⸻
寮に戻ると、机の上の問題集が目に入った。
さっきまで解いていたページ。
俺はそれをしばらく見つめ、静かに閉じた。
国家試験は大事だ。
間違いなく、人生を左右する。
だが、今日呼ばれて、断っていたら。
きっと、俺は後悔していた。
医師になるということは、
都合のいい時だけ現場に立つことじゃない。
名前が記録に残り、
判断が積み重なり、
それでも、次も呼ばれる。
それが、今の俺の立ち位置だ。
別のノートを開き、ペンを走らせる。
術後感染管理。
ドレナージ適応の判断基準。
再開腹のタイミング。
試験勉強と、現場。
その二つが、ようやく同じ線上に並び始めていた。
逃げない。
驕らない。
立ち続ける。
それだけでいい。
俺は、静かに次のページをめくった。




