第135話 近づく未来、俺は確実に掴みに行く
郵便受けの鍵を回す音が、獅子寮の静かな廊下に響いた。
冬休みに入ったキャンパスは人の気配が薄く、足音ひとつでもやけに大きく聞こえる。
十二月下旬。指先に、冷えた金属の感触が残った。
俺――ハヤト・キサラギは、郵便受けの中を覗き込んだ。
一通だけ、厚みのある封筒が入っている。
差出人を見て、動きが止まった。
聖ルカ総合病院 人事部
喉の奥が、きゅっと縮まる。
三ヶ月前の記憶が、何の前触れもなく引きずり出された。
ヒカリの容体が急変し、集中治療室に入ったあの日。
「一週間が山です」と言われ、迷う余地もなく、インターン受け入れを棄権した。
未来より、目の前の小さな手を選んだ。
後悔はしていない。
ただ、心のどこかに、置き去りにしたままの気持ちがあった。
封筒を手に取ったまま、しばらく動けずにいた。
階段を上る足取りは、普段より重い。
部屋のドアを開けると、エレナが窓際に立っていた。
ヒカリを抱き、外の景色を一緒に眺めている。
最近、ヒカリはつかまり立ちができるようになり、少し油断するとあちこちへ行ってしまう。
「ただいま」
声をかけると、エレナが振り返った。
「おかえり。郵便、来てた?」
「ああ……」
俺は封筒をテーブルに置いた。
椅子に腰を下ろすと、自分でも分かるくらい、呼吸が浅くなっている。
エレナは何も聞かず、ヒカリを床に下ろして、少し距離を取って見守った。
その気遣いが、ありがたかった。
封筒を開ける。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
中には、便箋が一枚と、数枚の書類。
目を走らせて、すぐに理解した。
「再度の申請を受け付ける」
「面談および選考の対象とする」
許可ではない。
でも、拒否でもない。
胸の奥に、静かに灯がともる。
三ヶ月前、俺は自分から降りた。
その席に、もう一度戻るための入口が、今、目の前に置かれている。
「……エレナ」
声をかけると、彼女がこちらを見た。
「どうだった?」
俺は便箋を差し出した。
「もう一度、挑戦していいって」
エレナは内容を読み、ふっと息を吐いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「よかったね」
派手な喜び方じゃない。
でも、その一言に、全部が詰まっていた。
ヒカリが俺の足元に近づき、ズボンを引っ張る。
「ぱぱ」と、まだ拙い声。
俺は抱き上げて、小さな背中を軽く叩いた。
三ヶ月前、守ることしかできなかった命。
今は、こうして腕の中にある。
「すぐ決まるわけじゃないよ」
俺が言うと、エレナは頷いた。
「うん。でも、それでいい」
その言葉で、肩の力が抜けた。
夜、ヒカリが眠った後、机に向かった。
参考書を開き、付箋だらけのページをめくる。
三ヶ月前、途中で止まった場所。
そのまま残していた線や書き込みが、当時の焦りを思い出させる。
医師になる理由は、変わっていない。
ヒカリが生まれた時、何もできなかった自分。
あの無力感を、二度と繰り返さないためだ。
ページをめくる手は、まだ迷いを含んでいる。
それでも、止まらない。
エレナが温かいお茶を置いてくれた。
「無理しすぎないで」
「分かってる」
本当は、分かっていない。
でも、それでも進むしかない。
窓の外には、冬の星が静かに瞬いていた。
まだ結果は出ていない。
保証もない。
それでも――
もう一度、立ち上がる場所には、戻ってこられた。
俺は視線を落とし、次の問題に取りかかった。
今度は、逃げない。




