第134話 名前が記録に残るということ
翌朝、病院の廊下はいつもより静かに感じられた。
国家試験が近づくこの時期、六年生は皆、実習と勉強の両立で神経をすり減らしている。無駄話をする余裕もない。
白衣のポケットに手を入れながら歩く。
昨日の手術の感触が、まだ指先に残っていた。
第二術者。
それは学生としては一段階、責任の重い立場だ。
評価される可能性がある一方で、ミスがあれば名前ごと記録に残る。
昨日、カルテに入力された《ハヤト・キサラギ》という文字を思い出す。
名前が残る。
それは誇りでもあり、同時に重荷でもある。
カンファレンス室に入ると、既に数名の教官と学生が集まっていた。
前方のモニターには、昨日の症例が表示されている。
「消化管穿孔、腹膜炎合併。緊急手術症例です」
執刀医が淡々と説明を始める。
俺は席に座り、背筋を伸ばした。
症例検討会。
ここでは、感情は意味を持たない。
あるのは事実と判断だけだ。
「穿孔部位は十二指腸球部。炎症が強く、一次縫合のみではリスクが高いと判断しました」
モニターに術中写真が映し出される。
腫脹した組織。脆い壁。
昨日、自分が見ていた光景と重なる。
「そこで大網被覆を併用しています」
執刀医が一瞬、俺の方を見た。
「この判断について、第二術者のキサラギ君。補足はあるか」
視線が集まる。
心臓が一拍だけ、強く打った。
だが、言葉は自然と出た。
「炎症範囲が広く、縫合不全のリスクが高いと考えました。
高齢患者である点も踏まえ、再手術の可能性を下げる選択を優先しました」
自分の声が、少し低く響く。
沈黙。
教官たちはモニターを見つめ、メモを取っている。
「妥当だな」
別の教官が短く言った。
「学生の立場で、そこまで考えられているのは評価できる」
それ以上の言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
過剰な称賛は要らない。
必要なのは、正しかったという事実だけだ。
カンファレンスが終わり、廊下に出ると、同級生が声をかけてきた。
「キサラギ、昨日の手術入ったって聞いたぞ」
「第二術者だって? すげぇな」
俺は軽く首を振った。
「緊急だっただけだ。運が重なった」
事実だ。
自分から掴みに行ったわけじゃない。
だが、運だけで立てる席じゃなかったことも、わかっている。
視線が、少し変わった。
敵意でも嫉妬でもない。
——“同じ現場に立つ人間を見る目”だ。
それが、少しだけ重く、そして心地よかった。
午後の実習は、これまでよりも細かく質問されることが増えた。
投薬量の根拠。
合併症への対応。
術後管理の注意点。
逃げ場はない。
だが、不思議と嫌じゃなかった。
問われるということは、
「任せられるかどうか」を見られているということだ。
夕方、カルテ室で指導医に呼び止められた。
「キサラギ君」
呼び方が、昨日と同じだった。
「国家試験前で忙しいだろうが……
今回の症例、評価シートに反映させておく」
評価。
正式な言葉として、胸に落ちる。
「ありがとうございます」
「慢心するな。
だが、昨日の判断を“偶然”だと思うな」
その一言で、十分だった。
寮に戻ると、部屋は静かだった。
エレナとヒカリは、もう寝ている時間だろう。
机に向かい、教科書を開く。
だが、すぐには文字を追えなかった。
昨日の術野。
今日の評価。
周囲の視線。
それらが、一つの線として繋がっていく。
医師になるということは、
試験に受かることだけじゃない。
判断を下し、
名前を残し、
結果を引き受けることだ。
俺は、父親だ。
学生だ。
そして——医師を目指す人間だ。
どれも中途半端にはできない。
ペンを取り、ノートに書き込む。
抗菌薬選択のフローチャート。
腹膜炎の術後管理。
再発時の対応。
さっきまでの勉強とは、少し違う。
知識が、現実と結びついている。
三ヶ月後。
国家試験に合格する。
それは、ゴールじゃない。
スタートラインだ。
昨日の手術は、
今日の評価は、
そのラインが、確かに目の前にあることを教えてくれた。
俺は顔を上げ、静かに息を吐いた。
やることは、もう決まっている。




