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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

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第133話 国家試験が近い中で、初めて術者席に立った件

 俺は机に向かい、薬理学の教科書を開いていた。

 ページの端には、何度も書き直したメモが並んでいる。抗がん剤の分類、副作用、支持療法。国家試験に向けて、頭に叩き込むべき知識は山ほどあった。


 三ヶ月後。

 二回目の国家試験。


 一回目は、ヒカリの容体悪化で棄権した。

 あの判断を後悔していないと言えば嘘になる。だが、間違っていたとも思わない。


 保育器の中で、小さな胸が上下するのを見つめていた夜。

 体温計の数字に一喜一憂しながら、ただ祈るしかなかった時間。

 それでもヒカリは、熱に浮かされながら俺の指を握り返し、「ぱぱ」と呼んでくれた。


 あの瞬間が、俺を医師に縛り付けた。


 ページをめくる。

 アルキル化剤、代謝拮抗剤、トポイソメラーゼ阻害剤。

 副作用の重なり、支持療法の選択、患者のQOL。


 これはただの暗記じゃない。

 いつか、目の前の患者に向き合うための武器だ。


 ルミエールアカデミー医療専門学校大学部六年生。

 学年首席。


 その肩書きが、時々重くのしかかる。

 首席だから期待される。

 首席だから失敗できない。


 だが、逃げる理由にはならない。


 獅子寮の自室は静かだった。

 隣室からは物音ひとつ聞こえない。エレナとヒカリは、もう休んでいるはずだ。


 十七歳で母になる決断をしたエレナ。

 学びの場を離れ、ヒカリの命を守ることを選んだ彼女の背中を、俺は何度も思い出す。


 ——俺だけが、夢を追い続けていいわけがない。


 その時、内線が短く鳴った。


 反射的に時計を見る。午前十時過ぎ。


「キサラギ君。手術室、来られるか」


 受話器越しの声は簡潔だった。

 指導医だ。


「症例は?」


「消化管穿孔。緊急だ。今日は助手じゃない。第二術者に入ってもらう」


 一瞬、言葉が喉に詰まった。


 第二術者。

 学生にとっては、責任の境界線を越える立場だ。


 心臓が強く打つ。

 だが、迷いはなかった。


「わかりました。すぐ向かいます」


 受話器を置き、白衣を羽織る。

 鏡に映る自分の顔は、思ったより落ち着いていた。


 ——逃げない。

 それだけを、胸に刻む。



 手術室の扉が閉まると、空気が変わった。

 消毒薬の匂い。無影灯の白い光。

 モニターに映る心拍数と血圧。


 患者は高齢の男性。腹膜炎を併発している。

 搬入時の顔色は悪く、血圧も不安定だった。


「穿孔部位は?」


「十二指腸球部。炎症が強い」


 俺は視野確保に集中する。

 腫脹した組織は脆く、少し力を誤れば簡単に裂ける。


 昨日まで、何度も見学してきた光景。

 だが今日は、立っている位置が違う。


 鉗子を持つ手に、余計な力を入れない。

 呼吸を一定に保つ。


「キサラギ君、縫合ライン、どう見る」


 突然の問い。


 一瞬だけ、頭の中で情報が整理される。

 炎症範囲、患者の年齢、術後リスク。


「一次縫合は縫合不全のリスクが高いです。

 大網被覆を併用した方が、安全性が高いと考えます」


 自分の声が、落ち着いて響く。


 沈黙。

 モニターの心拍音だけが、一定のリズムを刻む。


「……同意する。やってみろ」


 その一言で、覚悟が決まった。


 針を持つ。

 一針ずつ、確実に。


 組織の抵抗を指先で感じ取りながら、角度とテンションを調整する。

 教科書で学んだ知識と、これまで見てきた症例が、一本の線として繋がっていく。


 ——これは試験じゃない。


 目の前にいるのは、生きている人間だ。

 この一針が、術後の経過を左右する。


「いい。落ち着いている」


 指導医の短い評価。


 最後に大網を被せ、止血を確認する。

 バイタルは安定していた。


「閉腹に入る」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。



 手術室を出た瞬間、全身に疲労が押し寄せた。

 脚が少し重い。


 だが、心は不思議と静かだった。


「よくやったな、キサラギ君」


 指導医の声。


「国家試験前で不安もあるだろうが……

 今の判断は、医師として正しかった」


「ありがとうございます」


 それ以上、言葉は要らなかった。


 カルテ入力画面に表示された文字。

《第二術者:ハヤト・キサラギ》


 名前が、記録に残る。


 それは誇りであり、責任でもある。



 寮に戻り、俺は再び机に向かった。

 教科書を開く。


 同じ文字なのに、さっきまでとは違って見える。

 知識が、現実と結びついている。


 三ヶ月後。

 国家試験に合格する。


 それは、家族のためでもあり、

 今日の患者のように、これから出会う誰かのためでもある。


 俺はペンを握り直した。


 今日の手術は、

 医師への道が、確かに現実のものになった瞬間だった。


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