第132話 どんなに冷やかされても、俺は倒れない。
国家試験を放棄してから、ちょうど数週間が経っていた。
次の試験は、3ヶ月後だ。
獅子寮の自室で、俺は机に向かって最後の確認をしていた。窓の外は春の柔らかな夕暮れで、空が淡い橙とピンクに溶け合い、遠くの桜が蕾をほのかに膨らませている。机の上には、指で何度もなぞった教科書、赤と青で埋め尽くされたノート、折り目だらけの問題集が広がっている。エレナが淹れてくれたコーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上り、ほろ苦い香りが部屋を満たす。あの香りを吸い込むたび、心が少しだけ落ち着く。でも今夜は、落ち着くどころか、胸の奥が熱く疼いている。
隣の部屋から、エレナがヒカリを抱いて子守唄を歌う声が聞こえてくる。エレナの声は優しくて、温かくて、少し震えていて、ヒカリが時折「ぱぱ……」と甘えるような小さな声が混じる。あの声が耳に届くたび、胸が締めつけられる。愛しさと、感謝と、切なさと、すべてが混じり合って、熱いものが喉までせり上がってくる。ヒカリは最近、ようやく自分の足で歩き始めた。まだふらふらで、すぐに転びそうになるけど、俺に向かって小さな手を伸ばしてくる時のあの笑顔——それを見るだけで、涙がこぼれ落ちそうになる。あの子のために、俺はここまで来た。あの二人を守るために、俺は医師になるんだ。
あの日のことを思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。
国家試験の本番当日、俺は会場へは行かなかった。エレナの出産が重なり、ヒカリが生まれた直後、医師の冷たい言葉が突き刺さった。「1週間の命です」。その瞬間、世界が崩れ落ちた気がした。エレナの苦しむ顔、ヒカリの小さな体、すべてが頭の中で渦を巻いた。首席という肩書き、将来の夢、それらをすべて投げ出して、俺は家族を選んだ。エレナの手を握りしめ、ヒカリの指を包み込みながら、ただ「生きてくれ」と祈った。試験の開始時刻が過ぎても、俺は病院のベッドサイドから離れられなかった。
あの時、エレナは苦痛の中で俺の手を握り返した。汗に濡れた髪を額に張りつけ、弱々しい声で「ハヤト……ごめんね」と言った。謝る必要なんてなかった。俺はただ、エレナの額にキスをして、「一緒にがんばろう」と繰り返した。ヒカリが生まれた瞬間、産声が小さすぎて、俺たちは息を止めた。医師の言葉が現実になった時、俺はエレナを抱きしめて、二人で泣いた。でも、その涙の中で、俺たちは誓った。この子を、絶対に守ると。
あの選択を、後悔したことは一度もない。むしろ、あの瞬間が俺たち家族の絆を、永遠に結びつけた。
この3ヶ月、エレナは俺のすべてだった。17歳で中等部を中退し、母親になった彼女は、若さゆえの不安を胸に抱えながらも、俺を責めなかった。夜中にヒカリが熱を出して泣くと、すぐに抱き上げてあやし、俺が勉強している横で静かに見守ってくれた。ある夜、俺が疲れ果てて机に突っ伏していると、エレナがそっと肩に毛布をかけてくれた。彼女の手の温もりが、背中に伝わった時、俺は声を殺して泣いた。エレナは気づかないふりをして、ただ隣に座ってくれた。あの優しさが、俺の心を支えた。
ヒカリは、あの1週間の命と言われた子が、今は元気に笑う。彼女の小さな手が俺の指を握る感触、俺の膝に寄りかかってくる重み、エレナの胸で眠る寝顔——それらすべてが、俺たちの絆の証だ。ヒカリはマルクスが高圧的に話す声を聞くと、すぐに泣き出すってエレナが笑っていた。あの小さな体に、すでに家族を守る感覚があるのかもしれない。俺たちは三人で、どんな困難も乗り越えられる。
マルクスの嘲笑が耳に残る。
「来年? お前みたいな奴が受かるわけがない」
あの言葉が悔しくて、夜ごとに夢に出た。でも、今は違う。あの嘲笑さえ、家族の絆を強める糧になった。俺は一人じゃない。エレナがいる。ヒカリがいる。
ドアがノックされた。テオとエマが入ってきた。
テオは明るく笑って、パンの袋を振りながら座る。
「ハヤト、明日だな。お前なら絶対だ」
エマは薬理学のプリントを差し出し、優しく微笑む。
「一緒に確認しましょう」
二人の支えも、俺の力だ。でも、今夜一番の力は、隣の部屋にいる二人だ。
二人が去った後、俺は隣の部屋へ行った。エレナがヒカリを抱いて、ゆったりと揺れている。ヒカリはもう眠りにつきかけていて、小さな口が半開きだ。
エレナが俺を見て、静かに微笑んだ。
「ハヤト……」
俺はエレナの隣に座り、ヒカリの小さな頭をそっと撫でた。柔らかい髪の感触が、指先に伝わる。エレナが俺の肩に頭を寄せてきた。
「3ヶ月後、がんばってね。私たち、ずっと待ってる」
その言葉に、胸が熱くなった。俺はエレナの手を握り、ヒカリの小さな手を包んだ。三人の手が、重なり合う。
「ありがとう。エレナ、ヒカリ。俺は、お前たちがいれば、どんなことだってできる」
エレナの目から、涙がこぼれた。俺も、堪えきれずに涙を落とした。でも、それは弱さじゃない。絆の深さだ。愛の強さだ。
俺たちは三人で、静かに抱き合った。この温もりが、俺のすべてだ。この絆が、俺を明日へ押し出す。
あの病院で、ヒカリの命が危ぶまれた時、俺たちは手を離さなかった。今も、離さない。これからも、絶対に。
ベッドに入っても、眠りは浅かった。でも、心は満ちていた。夢の中で、エレナの笑顔が、ヒカリの声が、俺を包む。
朝の光が差し込んでくる。
次の国家試験は、3ヶ月後だった。
俺は倒れない。
この家族の絆がある限り、どんな壁も越えてみせる。
エレナ、ヒカリ。
愛してる。
明日、必ず受かって、二人を抱きしめる。
それが、俺の誓いだ。




