第131話 例え振り向きたくなっても、俺は進む
初めての国家試験を投げ出した日から、ちょうど一週間が経った。
あの日の記憶は、今でも心臓を締めつけるように痛い。
試験会場で問題用紙を前にしていた時、ポケットの携帯が震えた。エレナからの着信。試験中は絶対に電源を切るはずなのに、その日はなぜか切れていなかった。
「ハヤト……ヒカリが……急に熱が出て、息が……苦しそうで……今、ルミエールアカデミーの入院病棟に……」
エレナの声は震え、途切れ途切れだった。電話の向こうから、ヒカリの小さな、苦しげな喘ぎが聞こえてきた。その瞬間、世界が音を失った。
頭の中が真っ白になり、胸が張り裂けそうになった。問題用紙の文字がぼやけ、意味をなさなくなる。医師になるための試験? そんなもの、どうでもよくなった。ヒカリが、俺の娘が、今苦しんでいる。それだけがすべてだった。
俺はペンを投げ出し、席を立った。周囲の視線が刺さるのも、試験官の制止の声も耳に入らない。会場を飛び出し、全力で走った。
ルミエールアカデミーの入院病棟まで、息が切れ、肺が焼けるように痛み、足がもつれそうになっても、止まれなかった。
ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ……頭の中をその名前だけが駆け巡る。
病室に飛び込んだ時、ヒカリは小さなベッドで酸素マスクをつけられていた。顔は真っ赤で、必死に息を吸おうとしている。
一週間しか生きられないと言われた命が、また危機に瀕している。エレナはベッドサイドで涙をこらえ、俺は駆け寄って二人の手を強く握った。震える手が、熱かった。祈ることしかできなかった。神様、どうか、この子を助けてくれ。俺の命でもいいから、この子を……。
幸い、ヒカリは持ち直した。アカデミーの医師たちの懸命な処置と、エレナの看病で、数日で熱は下がり、あの無垢な笑顔を取り戻した。でも、俺の国家試験は終わっていた。放棄。棄権。理由はどうあれ、結果は同じ。医師になるための第一歩を、俺は自分で踏み外した。
それから一週間、俺は自分を責め続けた。ヒカリの側に駆けつけた選択は、正しかった。心の底からそう思う。でも、試験を投げ出した事実は消えない。
次の試験は、わずか3ヶ月後。追試験の枠が奇跡的に空いたおかげで、特別に受けられることになった。チャンスはくれた。でも、時間はあまりにも短い。3ヶ月で、六年分の知識を固め直し、あのプレッシャーに耐えられる心を取り戻さなければならない。
後ろを振り向きたくなる。あの会場に戻りたくない。あの瞬間、もう一度やり直せたら。でも、時間は戻らない。そして今、残された時間はわずか3ヶ月しかない。ヒカリを守るために、俺は絶対に医師にならなければならないのに。
部屋で膝を抱え、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていると、小さな足音が聞こえた。ヒカリだ。一歳の娘が、よちよちと歩いてくる。まだ歩きは不安定で、転びそうになりながらも、俺の膝にたどり着いた。小さな手で俺のズボンを掴み、顔を上げて、無垢に、無邪気に笑う。
「あーう!」
その笑顔に、胸が張り裂けそうになった。大きな瞳がキラキラと輝き、頰にはまだ少し熱の赤みが残っている。
あの入院病棟で苦しんでいた子が、今、こんなに元気に笑っている。生まれた時、一週間しか生きられないと言われた命。
俺とエレナの愛で、ここまで育ち、危機を乗り越え、今もこうして笑顔を見せてくれる。その笑顔が、俺の心を溶かす。涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
ヒカリは俺の膝に登ろうと必死だ。小さな体で一生懸命手を伸ばす姿が、愛しくて、愛しくてたまらない。俺はそっと抱き上げ、強く、強く胸に抱きしめた。
「ヒカリ……ありがとう。お前がいてくれるから、俺は……」
声が震える。ヒカリは俺の胸に顔をすり寄せ、満足そうに目を細める。この子の温もりが、心の傷を優しく癒してくれる。この笑顔を見ているだけで、あの時の選択が正しかったと、全身で感じる。でも、同時に、医師になれなかった自分が情けなくて、悔しくて、涙が止まらなくなりそうだった。この子を、これからも守るためには、俺は医師にならなきゃいけない。3ヶ月後、絶対に。
ヒカリを膝に乗せたまま、俺は机の上の教科書に目をやった。
試験の放棄届が、まだ引き出しに入っている。あの日以来、触れることすら怖かった。3ヶ月。あまりにも短い。基礎からやり直す時間はない。弱点を集中して潰し、実践問題を繰り返すしかない。
ヒカリが小さな手で俺の指を握ってきた。その小さな、温かい手が、心に染みる。この子は、俺が医師になるのを待っている。エレナも、そう信じてくれている。
そこへ、ドアがノックされた。入ってきたのはテオだった。手には大きな紙袋。
「おう、ハヤト……顔、死んでるぞ。何があったんだよ」
テオは俺の隣に座り、袋から菓子パンを取り出し始めた。六年生になって少し落ち着いたはずの食いしん坊が、またこれか。
「テオ……」
「そんな顔すんなよ。エマも心配してたぜ」
エマも入ってきて、優しく微笑んだ。
「ハヤト、試験の時、急にいなくなったって……何かあったの?」
二人の優しさに、胸が熱くなる。もう隠せない。ゆっくりと、あの日のことを話した。ヒカリの容体急変、電話、エレナの震える声、病棟へ走ったこと。そして、3ヶ月後の追試験。
部屋が静かになった。でも、すぐにテオが大きな声を出した。
「3ヶ月後か! 短いけど……そりゃ仕方ねえよ! ヒカリが大事に決まってるだろ! お前、よくやったよ!」
エマの目にも涙が浮かんでいた。
「ハヤト……正しい選択だったわ。命がかかってるんだもの。私たちなら、同じことする。3ヶ月、大変だけど……私たちも全力で支えるから」
二人の言葉に、涙が溢れた。放棄を責めない。むしろ、誇りに思ってくれる。それがどれだけ救いになるか。心の底から熱いものが込み上げてくる。
テオはパンを俺に押しつけ、声を張り上げた。
「ほら、食えよ! 甘いもの食ったら元気出るぜ! 3ヶ月、毎日一緒に食って、勉強して、絶対合格しようぜ!」
その馬鹿みたいな励ましに、涙を拭いながら笑った。ヒカリもテオを見て、手を叩いて喜ぶ。
エマがパンをちぎってヒカリに食べさせながら、優しく言った。
「あなたなら絶対に合格できる、ハヤト。私、信じてる」
そうだ。俺は一人じゃない。ヒカリの笑顔、テオの熱い励まし、エマの優しさ、エレナの支えがある。3ヶ月という短い時間でも、みんながいれば、乗り越えられる。
エレナが帰ってきた時、俺はすべてを話した。涙を流しながら。
エレナは静かに聞き、俺を抱きしめた。
「ハヤト……あの時、走ってきてくれて、本当にありがとう。ヒカリも、あなたがいてくれたから助かったの。私、誇りに思う。だから、後悔しないで。3ヶ月、私も全力でサポートする。一緒に、絶対に合格しましょう」
その夜、俺は教科書を開いた。ヒカリが寝静まった部屋で、ページをめくる。最初は手が震えた。でも、ヒカリの寝顔を見ると、涙が溢れながらも、勇気が湧いてくる。
あの日の選択は、正しかった。ヒカリの命を優先した。それが俺の誇りだ。
後ろを振り向きたくても、俺は前に進む。ヒカリのため、エレナのため、みんなのため、そして自分のためにも。
わずか3ヶ月後。二回目の国家試験。今度こそ、絶対に。
ページをめくる手が、涙で濡れながらも、力強く動いていく。ヒカリの無垢な笑顔が、俺の心を照らす。
俺は倒れない。誰も、倒れさせない。
この愛がある限り、俺はどんな壁も乗り越える。




