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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
六年生編:守りながら挑む日々

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第130話 試験よりも大切な物がある

俺は試験会場の席に座り、問題用紙を広げていた。ルミエールアカデミー医療専門学校大学部六年生、初めての国家試験。会場は静まり返り、ペンの音だけが微かに響く。俺、ハヤト・キサラギは、ようやくここまで辿り着いた。六年間の全てが、この数時間に懸かっている。


問題を読み始める。基礎医学から臨床まで、知識が次々と頭に浮かぶ。研修で見た患者の顔、深夜まで続いた勉強会、テオとエマと分け合った弁当の味。全てが繋がって、答えを導き出す。手応えがある。順調だ。このままいけば、確実に合格できる。


だが、心のどこかで常に意識していたものがある。ヒカリだ。一歳の娘。あの子は生まれた時、わずか一週間の命だと宣告された。それなのに、エレナと俺の愛を受けて、奇跡のようにすくすく育っている。毎朝、俺が出かける前に小さな手で俺の指を握ってくる。あの温もりが、今も手のひらに残っている気がする。


エレナは十六歳で中等部を中退し、母親業に専念してくれている。国家試験の準備で俺が徹夜続きの時も、彼女は文句一つ言わず、俺のノートを整理し、食事を作り、ヒカリを抱いて待ってくれた。あの二人がいるから、俺はここに立てた。


あの夜を思い出す。ヒカリが生まれてすぐの、NICUのガラス越しに見た小さな体。管が繋がれ、機械の音だけが響く部屋で、エレナと俺は手を握り合って祈った。エレナはまだ十五歳だった。震える声で「絶対に生きて」と繰り返し、俺はただ彼女の肩を抱くことしかできなかった。あの時から、俺たちは三人で一つの絆になった。ヒカリの命が、俺たちを繋いだ。


問題を半分ほど解き終えた頃だった。ポケットのスマホが、わずかに振動した。試験中は電源を切るのがルールだが、エレナにだけは緊急連絡用に繋がる設定にしていた。まさか、と思った瞬間、胸の奥が凍りつくような予感がした。


監督官に挙手し、許可を得て会場を出る。廊下で電話に出る。


「ハヤト……ごめん、試験中なのに……ヒカリが、急に熱が出て……息が荒くて、ぐったりしてて……今、ルミエールアカデミーの入院棟に連れてきたんだけど、先生がすぐに来てって……」


エレナの声は震え、涙が混じっていた。普段は強い彼女が、こんな声を出すのは滅多にない。俺の頭の中で、何かが弾けた。


ヒカリの顔が浮かぶ。朝、まだ元気だったのに。笑って手を振ってくれたのに。今、苦しんでいるのか。息が荒いって、どういう状態だ。熱はどれくらい。脱水は。感染症か。心臓の古傷が再燃したのか。あの子の体は、元々脆い部分を抱えている。


一瞬、試験会場に戻る自分を想像した。問題を解き終え、合格し、医師免許を手にする。家族を養える安定した未来。でも、その未来にヒカリがいなければ、何の意味がある。


いや、違う。ヒカリがいなければ、未来なんてない。あの宣告の日から、俺たちは三人で生きてきた。エレナの涙、ヒカリの小さな息遣い、俺の祈り。それが俺たちの絆だ。


「エレナ、落ち着いて。ルミエールアカデミーの入院棟だな。ヒカリに、俺がすぐに行くって伝えてくれ」


声は自然と落ち着いていた。俺自身、驚くほど冷静だった。決断は一瞬だった。試験を投げ出す。棄権する。次の国家試験は三ヶ月後だ。だが、ヒカリの命は今、この瞬間しかない。


スマホを切り、会場に戻らず、そのまま出口へ向かう。監督官が慌てて追いかけてくる。


「君、試験はどうするんだ!」


「棄権します」


それだけ答えて、走り出した。階段を駆け下り、校門を出て、キャンパス内を横断する。試験会場と入院棟は同じ敷地内だ。息を切らして走る距離が、幸運だった。


後悔はない。だが、心臓は激しく鳴っている。ヒカリ、どうか耐えてくれ。ただの風邪かもしれない。でも、もし重症なら。俺が間に合わなかったら。


エレナの顔も浮かぶ。彼女は今、どれほど不安だろう。一人でヒカリを抱いて、待っている。十六歳で母親になり、俺の夢を支えてくれた彼女に、俺はどれだけ救われたか。あの頃、俺たちはまだ子供だった。それでも、ヒカリを選んだ。二人で、家族になった。


入院棟に着く。受付を知り尽くしている俺は、すぐに小児科病棟へ上がる。エレナがヒカリを抱いて、待合室の椅子に座っていた。顔は蒼白で、目が腫れている。ヒカリの小さな体を、必死に守るように抱きしめている。


俺は駆け寄り、ヒカリを受け取る。一歳の娘は熱で顔を真っ赤にし、小さな胸が荒く上下している。触ると、熱い。四十度近い。唇が乾いている。脱水の兆候だ。


「エレナ、よく連れてきてくれた。後は俺に任せろ」


エレナが俺を見上げる。涙で濡れた瞳に、わずかな安堵が浮かぶ。彼女は小さく頷き、俺の腕に触れた。その指先は冷たかったが、確かな力があった。俺たちは言葉を交わさなくても、分かり合える。


看護師を呼び、状況を説明する。学校の入院棟だから、顔見知りのスタッフが多い。すぐに医師が来てくれる。俺は研修で学んだ知識を総動員する。ヒカリの脈を測り、呼吸音を聴く。喉は赤くない。心音は速いが、不整はない。熱源はウイルス性か。


点滴の準備を指示し、解熱剤を相談する。担当医が到着し、俺の判断を聞いて頷く。すぐに処置室へ移動だ。


ヒカリの手を握り続ける。小さな指が、弱々しく俺の指を掴む。その感触で、胸が締めつけられる。あの宣告を受けた日を思い出す。一週間の命と言われた時、俺たちは泣きながらも、絶対に諦めなかった。毎日のように抱き、話し、愛を注いだ。あの子はそれに応えて、生きてくれた。


エレナが隣に座り、ヒカリのもう片方の手を握る。三人の手が繋がる。俺はエレナを見る。彼女は静かに涙を流しながら、微笑んだ。あの微笑みは、生まれたばかりのヒカリを抱いた時と同じだった。


「ハヤト……ありがとう。私、一人じゃ怖くて……でも、ハヤトが来てくれるって、信じてた」


その言葉に、俺の胸が熱くなる。俺たちはいつもこうだ。誰かが弱った時、もう一人が支える。そしてヒカリが、俺たちを繋ぐ。


俺はヒカリの額に唇を寄せ、囁く。


「ヒカリ、頑張れ。パパがここにいる。ママもいる。一緒に乗り越えよう」


処置が進む。点滴が効き始め、熱が少し下がる兆しが見える。呼吸も徐々に落ち着いてくる。担当医が「脱水と高熱による一時的なものだ。もう大丈夫」と告げる。


俺はようやく息をついた。膝が震える。エレナが俺の肩に寄りかかる。


そして、その時だった。


ヒカリの目が、薄く開いた。小さな瞳が俺たちを探し、焦点が合う。弱々しいながらも、はっきりとした声で。


「……ぱ……ぱ……」


初めて、俺を「パパ」と呼んだ。


胸の奥が熱くなった。涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。エレナも息を飲み、目を大きく見開く。彼女の頰に、涙が伝う。


ヒカリはもう一度、力を振り絞るように言った。


「ぱぱ……ま……ま……」


今度はエレナに向かって。「ママ」。


エレナが声を上げて泣いた。喜びと安堵の涙だ。俺も堪えきれず、涙が零れる。


ヒカリは小さく微笑み、俺たちの手を交互に握る。その小さな力に、俺たちの絆の全てが詰まっている気がした。あの宣告の日から今日まで、俺たちは三人で戦ってきた。奇跡を信じ、愛を注ぎ、諦めなかった。


エレナが俺の手を強く握り返す。彼女の目が、俺を見つめる。


「ハヤト……私たち、ちゃんと家族だね」


俺は頷く。言葉はいらない。ただ、互いの手を握り、ヒカリの手を包む。


夕陽が病室に差し込み、三人の影を一つに重ねる。この瞬間、俺は確信した。


この絆があれば、どんな試練も乗り越えられる。三ヶ月後の試験だって、きっと。


テオとエマが駆けつけてきて、病室の外からその様子を見て、静かに微笑む。二人の目にも、涙が浮かんでいた。


ヒカリは再び眠りにつき、穏やかな寝息を立てる。俺とエレナは、互いの手を離さず、娘の手を優しく包み続ける。


この温もりこそが、俺たちの全てだ。


これからも、ずっと守り続ける。

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