第13話 試験?それどころじゃないーー俺は今、命を掴みに行く
試験まで、あと一週間。
俺は自室の机に向かい、背筋を伸ばしたまま解剖学のノートを開いていた。
椅子に深くもたれかかることはない。机に突っ伏すこともしない。
逃げる姿勢を取る理由は、もうどこにもなかった。
ページをめくるたび、骨の形状と筋肉の付着、神経と血管の走行が頭の中で立体的に組み上がっていく。
それは暗記ではなく、**「現場で使う前提の知識」**だった。
もしここを切開するなら、どこに注意すべきか。
この症状が出た時、まず疑うべき異常は何か。
薬剤を投与した場合、どんな副作用が起こり得るか。
考える。
想定する。
備える。
机の上には、何度も書き直した解剖図。
薬理学の相互作用をまとめた表。
心電図の異常波形を症例ごとに整理したノート。
散らかしているつもりはない。
これは混乱じゃない。
積み上げてきた時間の証拠だ。
午後の光がカーテン越しに差し込み、紙の上に影を落とす。
その光が揺れるたび、胸の奥が微かに疼いた。
――まだ足りない。
――だが、止まる理由にもならない。
エレナを救うための知識は、確実に増えている。
それでも「これで十分だ」と言える日など、永遠に来ないだろう。
医療とは、そういう世界だ。
だからこそ俺は、今日も机に向かっている。
試験のためじゃない。
評価のためでもない。
誰かの命を前にした時、迷わない自分でいるためだ。
昨夜見た悪夢が、ふと脳裏をかすめる。
心電図の波形が、ゆっくりと低下していく。
周囲で医師たちが必死に動いているのに、俺だけが足を縫い付けられたように動けない。
――違う。
――あれは、未来じゃない。
汗で湿ったシーツ。
夜中に飛び起きた時の息苦しさ。
胸の奥に残った、冷たい感覚。
だが、今の俺は知っている。
恐怖は、俺を止めるものじゃない。
動かすための燃料だ。
――エレナだけは、絶対に失わせない。
その覚悟を、胸の奥で噛み締めた、その瞬間。
校内に、ナースコールの緊急音が鳴り響いた。
「――っ!」
椅子が倒れる音が背後で響く。
だが振り返らない。
身体はもう、走り出していた。
鼓動は早い。
だが、不思議と頭は冴えている。
――エレナだ。
理由を考える前に、結論が出ていた。
この感覚を、俺は信じている。
ノートもスマホも机に置いたまま、ドアを開け放つ。
今必要なのは道具じゃない。
判断できる自分自身だ。
廊下を駆け、階段を飛ばす。
肺が焼けるように痛むが、速度は落とさない。
――間に合う。
――間に合わせる。
病院棟に入った瞬間、空気が変わる。
消毒液の匂い。
張り詰めた声。
走る足音。
「コードブルー! 患者急変!」
視界に入る情報を、瞬時に整理する。
人の流れ、動線、器材の位置。
エレナの病室は、すぐに分かった。
扉の向こうから、絶え間ないアラーム音が漏れている。
扉を開けた瞬間、状況は一目で理解できた。
全身の痙攣。
チアノーゼ。
焦点の合わない瞳。
――低酸素。
――不整脈。
「心室細動! ショック準備!」
除細動器の起動音。
「クリア!」
小さな身体が跳ねる。
――冷静でいろ。
――今は感情じゃない。
だが、次の瞬間、医師の肩が俺を押した。
「危ない、下がって!」
扉が閉まり、俺は廊下へ押し出される。
……それでも。
俺は、崩れなかった。
膝は震えたが、立っていた。
――俺は、見ているだけの存在じゃない。
あの日を思い出す。
手術室で、祈ることしかできなかった自分。
同じ後悔は、もう繰り返さない。
扉の向こうから、怒号。
「心停止!」
次に聞こえたのは――
長く伸びる、あの音。
「……時間です。蘇生、終了」
世界が、音を失った。
だが。
俺は、止まらなかった。
扉を開け、医師たちを押しのける。
「エレナ!」
ベッドへ駆け寄る。
身体は軽い。
だが、まだ完全には冷えていない。
――まだだ。
「戻ってこい……!」
それは祈りじゃない。
願いでもない。
――生きろ。
その瞬間。
胸が、わずかに上下した。
「……呼吸再開!」
「自己心拍回復!」
温もりが、戻る。
……よし。
だが、安心する暇はなかった。
ゆっくりと開いたエレナの瞳。
そこにあったのは、恐怖と混乱、そして深い絶望。
「どうして助けたの……」
その言葉が胸に刺さる。
視線が、器具台へ向かう。
――判断、即行動。
俺は一歩踏み込み、その手を掴む。
メスを床へ叩き落とす。
「俺は死なない!」
声は、迷いなく出た。
「お前のせいでなんか、誰も死なない!
そんな理由で命を諦めるな!」
震える小さな身体を、強く抱きしめる。
「俺が守る。
エレナは、俺が救う。」
彼女の力が抜け、静かな寝息が戻る。
外では、まだ緊迫した世界が続いている。
だが、俺の中では、すべてが決まっていた。
どんな代償を払ってでも。
どんな現実が待っていようとも。
俺は倒れない。
この子を、必ず救う。




