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第13話 絶望の淵、光の代償

試験まで、あと1週間。

俺は自室の机に突っ伏すようにして、解剖学のノートを睨みつけていた。


内容は頭に入っているはずなのに、ページをめくる手が止まる。

視線を落としても、字が滲んで見える。

焦りが、集中力を奪っていた。


机の上には、何度も書き直した解剖図、薬理学の表、心電図の読み方まとめノート。

散らかしたつもりはないのに、すべてが俺の不安そのもののように散乱している。


午後の光がカーテン越しに差すたび、胸がずきりと痛む。


――こんなんじゃダメだ。

――エレナを救うための知識が、まだ足りない。


試験のプレッシャーではない。

もっと切実で、鋭い恐怖が俺の胸を締めつけていた。


昨夜見た“あの悪夢”が、頭から離れなかったのだ。


エレナの心電図の波形が、ゆっくり落ちていく。

医師たちが動き回っているのに、俺は動けず、声も出せず、ただその光景を見ているだけ。

最後にモニターの線が平坦になった瞬間、夢の中の俺は膝から崩れ落ちた。


「お前は、本当に彼女を救う気があるのか?」


夢の中で響いた声が、まだ胸に残っている。

俺自身の声なのかもしれない。


汗で湿ったシーツ。

夜中に飛び起きた時の息苦しさが、まだ体の奥に残る。


――エレナだけは、絶対に失わせない。


そう思った瞬間だった。


校内に、ナースコールの緊急音が鳴り響いた。


「!!」


反射的に椅子を倒し、俺は立ち上がった。

鼓動が胸を殴るみたいに跳ね上がる。

視界が一瞬、白く飛んだ。


――エレナだ。


理由なんていらない。

体が先に動いた。


ノートもスマホも放り出し、ドアを乱暴に開け、廊下へ飛び出す。

階段を駆け下り、息が追いつかないほど肺が焼ける。

病院棟までの数十秒が永遠みたいに長い。


――頼む。間に合ってくれ。


祈りながら、俺は転ぶように病院棟へ飛び込んだ。


消毒液の匂いと怒号がぶつかってくる。


「コードブルー! 患者急変!」


白衣が走り回る。

ストレッチャーが押し込まれる。

看護師たちの声が飛び交う。

すべてが遠くに聞こえるのに、エレナの病室だけはすぐに分かった。


扉が半開き。

中から絶え間ないアラーム。


胸が鷲掴みにされたように痛くなった。


扉を開けた瞬間、息が止まった。


ベッドの上で、エレナが痙攣している。

紙のような白い顔。

紫に染まった唇。

焦点の合わない瞳。


「心室細動! ショック準備!」


除細動器の起動音。

「クリア!」

小さな体が跳ねる。


俺は動けない。

視界の色が薄くなる。


「危ないから下がって!」


肩を押され廊下へ追い出される。

閉まる扉。

壁に背を預けると、膝が震え始めた。


――まただ。

――俺はまた、見ているだけなのか。


手術室で祈ったあの日が蘇る。

冷たい手。

弱い鼓動。


「……っ」


声にならない。


その時。


「心停止! 除細動器、急いで!」


扉の向こうで怒号が走る。

金属音。

足音。


――やめろ。

――その言葉、聞きたくない。


だが、次の音が届いてしまった。


長く、伸びるモニター音――。


「……時間です。蘇生、終了」


世界の色が消えた。


エレナは……死んだのか。


呼吸が止まる。

指先が冷える。

膝が折れ、床に手をついた。


気づけば扉を乱暴に開け、医師たちを押しのけてベッドへ向かっていた。


「エレナ……エレナ……!」


小さな身体は軽く、温もりもほとんど残っていなかった。

胸が裂ける。喉が焼ける。


「お願いだ……戻ってきて……!」


涙が勝手に落ちた。


その瞬間。


エレナの胸が――わずかに上下した。


「……っ!? 呼吸再開してる!」


「自己心拍回復! 準備再開!」


理解が追いつかない。

ただ、彼女の手に微かな温かさが戻っていた。


「……よかった……本当によかった……」


そう呟いた時だった。


ゆっくりと開いたエレナの瞳が、俺を貫いた。


それは――陽だまりのようなあの瞳ではなかった。


怯え。

混乱。

そして、底の見えない絶望。


「どうして助けたの……?

ママもパパも……ハヤトにぃにも……

私が……殺すのに……」


その言葉は、刃より鋭く胸に突き刺さった。


「エレナ……違う、そんなこと――」


言いかけた瞬間。


エレナの指先が、器具台のメスへ伸びた。


その一瞬――俺の背中に氷の刃を当てられたような寒気が走った。


いつもの無邪気さの欠片もない。

ただ、迷いのない“行動”だった。


やめろ……頼むからやめてくれ。

叫ぼうとした声は喉に貼りつき、足が床に縫い付けられたように震えた。


次の瞬間。


エレナは震える声で叫んだ。


「みんな……殺すの……!

私の病気……みんな死んじゃう……!」


その叫びが空気を切り裂いた瞬間――

俺の鼓動が止まった。


「――っ!」


胸が突き刺さるように痛む。

視界が揺れ、世界が遠のいた。


エレナの声なのに、エレナの声じゃなかった。

あの陽だまりの少女の面影が、完全に消えていた。


何が彼女をここまで追い詰めた。


誰だよ……こんな顔をさせたのは。


「やめろ!!」


俺は反射的にその手を掴み、メスを床へ叩き落とした。

金属音が響く。


震える小さな肩を抱きしめる。

壊れそうなほど細い身体。


「俺は死なない!

お前のせいでなんか絶対に死なない!

そんなふうに……自分を責めるな……!」


エレナが泣き崩れる。

涙で濡れた声は、幼い子どもの罪悪感そのものだった。


「私……病気うつすの……

みんな……死んじゃう……

ハヤトにぃにも……死んでほしくないの……」


胸がえぐられた。

この苦しみをどうすれば取り除けるのか分からなかった。


俺は彼女の背を撫で、息が触れる距離で囁く。


「大丈夫だ。

病気も、誰の死も、お前の責任じゃない。

俺が守る。

エレナは、俺が救う。」


エレナの体から力が抜ける。

小さな身体が俺に預けられ、静かな寝息が戻る。


外ではサイレン。

医師たちの足音。

緊迫した世界。


だが俺の中では、エレナの温もりだけが全てだった。


どんな代償を払ってでも――

この子だけは救う。


その決意が、深く胸に沈んでいった。

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