第129話 6年生の始業式と、国家試験への不安
ルミエールアカデミーの講堂は、朝の柔らかな陽光がステンドグラスを通って七色に散り、床に淡い模様を描いていた。六年生の始業式。白衣を着た同級生たちが整列する中、俺は壇上の階段をゆっくりと上った。学年代表としての挨拶。マイクを握る手が、わずかに汗ばむ。心臓の音が耳の奥で響くが、深呼吸を一つして、顔を上げた。
講堂が静まり返る。数百人の視線が、俺に集中する。白衣の海が広がり、みんなの表情が真剣だ。俺たちはもう、医学生の最終学年。国家試験を控え、医師への最後の階段に立っている。
「皆さん、おはようございます。六年生学年代表、キサラギ・ハヤトです」
声は意外と落ち着いていた。自分でも驚くほどに。練習を重ねた成果か、それとも、胸の奥に燃える想いが支えてくれているのか。
「命とは、何でしょうか」
一瞬、言葉を切る。講堂の空気が、さらに重くなる。俺はゆっくりと、でも確かな声で続けた。
「僕たちはこれまで、多くの患者さんと向き合ってきました。生まれる命、闘う命、時には静かに終わる命。実習で触れた一つ一つの症例が、教えてくれたのは、命がどれほど儚く、どれほど強いかということです。
新生児室で見た、わずか数百グラムの赤ちゃんが必死に息をする姿。あの小さな胸が、懸命に上下する様子を、今でも鮮明に覚えています。集中治療室で、家族に囲まれながら最後の時間を過ごす患者さんの穏やかな表情。痛みを堪えながらも、家族に微笑みかける姿に、命の尊厳を感じました。救急外来で、心肺停止から蘇生された人の、奇跡のような第一声。あの瞬間、部屋にいた全員が息を飲んだことを、忘れられません。
それらはすべて、命の重さを教えてくれました。
命は、予測できません。教科書通りに進むことなど、ほとんどありません。予後が良いと言われた患者さんが突然悪化し、絶望的と言われた人が回復することもあります。僕たちは、そんな不確かなものを預かる仕事を選んだのです。
だからこそ、僕たちに必要なのは、知識だけではありません。患者さんの痛みに寄り添う心、家族の不安を受け止める姿勢、そして、何よりも諦めない意志です。
国家試験を控えた今、僕たちはもうすぐ医師として社会に出ます。そこでは、誰もが完璧な判断を下せるわけではありません。間違いを恐れていては、前に進めません。でも、間違いを恐れるあまり、何もしないことも許されない。それが、命を預かるということです。
僕は、個人的な経験から、それを強く感じています。命は、時に私たちの予想を裏切り、奇跡を起こします。だからこそ、最後まで諦めず、できることを尽くす。それが、僕たちにできる最大の敬意です。
六年生の皆さん。国家試験に向けて、もう一度気を引き締めましょう。命を救う力を、確実に手に入れるために。そして、医師になった後も、その初心を忘れずに、患者さんの側に立ち続けましょう。
僕たちは、命を守るためにここにいます。
ありがとうございました」
言葉を終えた瞬間、講堂に拍手が沸き起こった。最初は静かに、それから徐々に大きく、温かく。俺は深く一礼して壇を降りた。足が少し震えていたが、心は不思議と澄んでいた。スピーチの最中、ヒカリの顔が何度も浮かんだ。一週間の命と言われた娘が、今こうして元気に育っている。あの小さな手が俺の指を握り返す感触が、言葉に力を与えてくれた。
席に戻ると、テオが隣で小さく親指を立てていた。六年生になって、少し落ち着きが出たと言っても、彼の笑顔は相変わらず明るい。エマが静かに頷き、穏やかな微笑みを浮かべている。客席の後ろ、エレナはヒカリを抱いて立っていた。彼女の目が、少し潤んでいるのがわかった。ヒカリはエレナの胸で小さく手を振っているように見えた。あの笑顔が、俺のすべてだ。
式が終わって講堂を出ると、外は春の陽気が満ちていた。新学期の始まり。六年生としての、最後の一年。桜の木が並ぶ並木道を、テオとエマと三人で歩く。花びらがひらひらと舞い落ち、肩に優しく乗る。
テオが先に口を開いた。珍しく真剣な声だった。
「ハヤト、あのスピーチ……本当に良かった。心に響いたよ。『命は予想を裏切る』ってところ、特に。なんか、俺の胸に刺さった」
エマが続ける。
「あなたらしい言葉だったわ。みんな、静かに聞き入ってた。私も……胸が熱くなった。患者さんの側に立ち続ける、って言葉、忘れない」
俺は軽く笑って、首を振った。
「ありがとう。でも、正直……国家試験が近づいてきて、不安がないと言ったら嘘だ。スピーチで偉そうなこと言ったけど、自分に言い聞かせてる部分も大きいよ」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少し軽くなった気がした。国家試験のプレッシャーは、日増しに重くなる。合格率は高いとはいえ、落ちる人はいる。落ちたら、医師になれない。ヒカリの主治医になれない。
テオが立ち止まって、俺の肩を叩いた。力強い手だった。
「俺だって同じだよ。六年生になって、なんか現実味が増してきてさ。夜、寝る前に不安になることだってある。でも、お前なら絶対大丈夫。一緒に頑張ろうぜ。俺がドジって落ちそうになったら、お前が引っ張ってくれよ」
エマが頷く。
「私も全力でサポートする。今日からまた、模擬試験を始めましょう。あなたが代表で言った通り、諦めない意志を、私たちも持つわ。弱点分野を徹底的に潰していきましょう」
二人の言葉が、胸に染み込んでいく。テオの落ち着いた声、エマの確かな眼差し。六年になって、テオも少し大人びてきた。食いしん坊の部分は変わらないけど、肝心な時はしっかり支えてくれる。エマはいつも通り、高度な知識で俺たちを導いてくれる。
寮に戻る道中、俺はスピーチの余韻に浸っていた。壇上で語った言葉は、すべて本心だ。実習で見た患者さんたちの姿が、脳裏に次々と浮かぶ。新生児の小さな息遣い、末期患者の穏やかな微笑み、蘇生後の第一声。あの瞬間瞬間が、俺を医者への道に駆り立てる。
獅子寮に戻ると、自室のドアを開けた瞬間、エレナが笑顔で迎えてくれた。ヒカリを膝に乗せて、テーブルにコーヒーと軽食を用意してくれている。
「ハヤトにぃに、おかえり! スピーチ、すごくかっこよかった……私、泣きそうになったよ。命の話、聞いてて胸が熱くなった」
エレナの声は少し震えていた。天真爛漫な彼女が、こんなに真剣な顔をするのは珍しい。彼女の無自覚な可愛さが、俺をいつも振り回すが、今はただ優しく胸に響く。
ヒカリが小さな手で俺に手を伸ばす。俺は彼女を抱き上げて、頰を寄せた。柔らかい頰の感触、甘いミルクの匂い。一歳になったばかりの娘が、俺の首に小さな腕を回してくる。温かくて、確かな重み。
「ただいま。……ありがとう、エレナ」
エレナが照れたように笑って、テーブルに置いたノートを指差した。
「国家試験のスケジュール、まとめておいたよ。過去問の優先順位とかも、ハヤトにぃにの苦手分野中心に。ヒカリの相手も私がちゃんとやるから、勉強に集中して」
彼女は高等部を中退して、母親業に専念している。それでも、俺の勉強を支えてくれる。夜遅くまで起きて、参考書のコピーを取ったり、食事の準備をしたり、俺の様子を気遣ったり。本当に、俺は彼女にどれだけ救われているか。
胸が熱くなった。
「本当に、ありがとう。エレナがいなかったら、俺はここまで来られなかった」
エレナが少し頰を赤らめて、目を逸らした。
「ハヤトにぃにが頑張ってるんだもん。私だって、頑張るよ」
俺はヒカリを抱いたまま、机に向かった。参考書を広げ、ペンを握る。スピーチで語った言葉を、自分にも言い聞かせる。
命は、予想を裏切る。
ヒカリがそうだった。一週間の命と言われた子が、今こうして元気に笑っている。それが、俺の最大の力だ。彼女の小さな心臓の音が、俺の決意を支える。
国家試験まであと少し。絶対に合格する。
医者になって、ヒカリの未来を、みんなの未来を守るために。
誰も、倒れないように。
俺はページをめくった。新たな一年が、始まる。
スピーチの言葉を思い出すたび、胸の奥で決意が燃える。
命を預かる者として、諦めない。
間違いを恐れず、前に進む。
患者さんの側に立ち続ける。
それが、俺の道だ。
夕方、テオとエマが部屋を訪ねてきた。模擬試験の問題集を抱えて。
「よし、早速始めようぜ」テオが笑う。少し落ち着いた笑顔が、頼もしい。
エマが問題を配りながら、「弱点分野から攻めましょう。今日は内科から」と言う。
エレナがキッチンで、軽食を準備してくれている。ヒカリは床で玩具を握って、時折俺の方を見て笑う。彼女の視線を感じるだけで、集中力が湧いてくる。
この部屋が、俺のすべてだ。
家族がいる。親友がいる。
だから、強くなれる。
国家試験の不安は、まだ胸の奥にある。でも、それは恐怖じゃない。覚悟だ。
絶対に合格する。
医師免許を手に入れて、ヒカリの主治医になる。
どんな患者さんが来ても、諦めない。
スピーチで言った言葉を、生涯の信条にする。
命を守るために、ここにいる。
俺は問題を解き始めた。ペンが紙を滑る音が、静かに響く。
外では、桜の花びらが舞い続けている。
六年生の春。
最後の戦いが、始まった。
誰も、倒れない。
俺が、守る。
その想いだけを胸に、俺は勉強を続けた。夜が更けても、明かりは消さない。
ヒカリの寝息が聞こえる。エレナの優しい視線を感じる。
テオとエマの声が、時折響く。
この温もりが、俺の力だ。
明日も、明後日も、試験の日まで。
諦めない。
命を、守るために。
ページをめくり、問題を解き、知識を刻み込む。
胸の奥で、決意が静かに、しかし確実に燃え続ける。
新学期の朝は、こうして過ぎていった。
俺たちの、最後の一年が。
春の風が窓から入り、参考書のページを軽く揺らす。
俺は顔を上げ、家族と親友を見回した。
みんながいる。
だから、俺は前に進める。
国家試験の合格を、医師としてのスタートを、確実に掴む。
ヒカリがまた笑った。小さな声が、部屋に響く。
その笑顔が、俺の未来だ。
守るべきものが、ここにある。
だから、強くなれる。
スピーチの余韻が、まだ胸に残る。
命とは、何か。
それは、諦めないことだ。
最後まで、側に立つことだ。
俺はペンを走らせ続けた。
六年生の春は、こうして深まっていく。
誰も倒れないように。
ただ、それだけを願って。




