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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第126話 結局、大所帯で旅行に行くことになった件

春休みに入ったばかりの朝、俺は獅子寮の自室で深いため息をついていた。窓から差し込む柔らかな陽光が、机の上に積まれた医学書の山を照らしている。本当なら、この貴重な三日間を、ただひたすらに寝て過ごすはずだった。実習の疲れが骨身に染みついている。試験が終わったばかりの体は、ようやく解放された安堵と、溜め込んだ睡眠不足の重さを同時に訴えていた。


なのに、今は荷物をまとめている。しかも、ベビー用品まで含めてだ。


「ハヤトにぃに! 準備できたよー!」


ドアが勢いよく開き、エレナがヒカリを抱いて飛び込んできた。エレナの声はいつものように明るく、天真爛漫さがそのまま音になったみたいだ。ヒカリは俺の顔を見上げると、小さな手をぱたぱたと伸ばしてくる。


一歳になったばかりのその笑顔は、予想外の奇跡を象徴している。一週間の命だと宣告された子が、こうして元気に笑っている。医学生として、数え切れないほどの症例を見てきた俺でも、この子の存在は特別だ。


俺は自然と手を伸ばし、ヒカリの小さな指を握った。温かい。柔らかい。この感触が、俺の日常の中心になっている。


「……本当にこれでいいのか?」


荷物をバッグに詰め込みながら、俺は独り言のように呟いた。きっかけはもちろんテオだ。あいつがいつもの調子で、「大人たちのコネがあるから、ルミエール王国の温泉旅館が格安で取れたんだよ!」と得意げに言い出したのが始まりだった。最初はテオとエマの二人旅のはずだった。エマも「たまには息抜きが必要でしょ」と賛成していたし、俺は遠慮しようと思っていた。


ところが、そこにエレナが耳を立てた。「温泉? 私もヒカリも行きたい!」と目を輝かせて。ヒカリはまだ言葉を話さないけど、エレナの興奮が伝わったのか、嬉しそうに手を叩いていた。俺は断るタイミングを失い、結局五人全員で行くことになってしまった。


テオの策略と言えばそれまでだけど、あいつは悪気がない。ただの食いしん坊で、斜め上の発想で周りを巻き込むのが得意なだけだ。それがムードメーカーとして機能しているのも事実で、獅子寮の空気がいつも和むのはテオのおかげだ。


俺は最後の荷物を詰め終えると、ベビーカーを畳んで持ち上げた。エレナが横でヒカリを抱き直しながら、期待に満ちた笑顔を向けてくる。


「ハヤトにぃに、ありがとう。本当に楽しみなんだ。ヒカリも初めての旅行だよ」


その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。エレナは十六歳で母親になった。天真爛漫な性格は変わらないけど、ヒカリを抱く仕草や、少し大人びた口調に、母親としての責任感が滲み出ている。俺はそんなエレナを、ただ見守ることしかできない。でも、こうして一緒に暮らしている以上、家族のようなものだ。


部屋を出ると、リビングでテオとエマが待っていた。テオはソファに座って、地図アプリを眺めながら目を輝かせている。


「いいに決まってるじゃん! ルミエール王国の温泉街、初めてだろ? 観光地もたくさんあるし、飯がうまいって聞いたぞ! 特に名物の温泉饅頭と、地元の新鮮な魚介が最高らしい!」


いつもの食いしん坊っぷり全開だ。エマは隣で腕を組んで、呆れた顔をしている。


「あなた、また食べることしか考えてないでしょ。ちゃんと観光地も回るんだからね。王宮の庭園とか、歴史博物館とか、予定はちゃんと立ててあるんだから」


エマのツッコミは鋭い。高度な医学知識を持つ彼女は、いつも冷静で的確だ。テオの恋人として、こうして叱りながらも付き合っている姿を見ると、なんだか微笑ましい。


「わかってるって! ほら、ハヤトも早く! 電車に遅れたら大変だぞ!」


テオが立ち上がって、俺の荷物を手伝おうとする。ちょっとドジなところがあるあいつは、勢い余ってバッグを落としそうになったが、なんとか受け止めた。


俺は苦笑しながら、ヒカリのベビーカーを押して部屋を出た。エレナが横で小さく手を振る。


「ハヤトにぃに、ありがとう。ヒカリも喜んでるよ」


その笑顔を見ると、春休みが潰れたことへの不満が、少しずつ溶けていく気がした。確かに疲れている。でも、医学生の日常はいつも慌ただしい。実習で患者さんの命と向き合い、レポートに追われ、試験勉強に没頭する日々。そんな中で、こうして皆と一緒に過ごす時間は、案外悪くない。


駅に向かう道中、テオは相変わらず地図アプリを見ながら興奮している。「ここに温泉饅頭の有名店があるらしい!」「あ、観光地の王宮近くにジェラート屋もあるぞ!」と、次から次へと食べ物の話題だ。エマに「まだ着いてもないのに!」と肘で小突かれながらも、めげない。


エレナはヒカリを抱きながら、窓の外の景色を指差して楽しげだ。街並みが徐々に田舎っぽくなっていく。ルミエール王国はアカデミーから少し離れた場所にあるけど、電車で二時間ほど。観光地として人気があるらしい。


俺はベビーカーを押しながら、ふと思う。俺は弱気な性格じゃない。過度に自分を否定したりしない。ただ、行動で示すタイプだ。ヒカリが生まれた時も、エレナが悩んでいた時も、黙って支えてきた。それが俺のやり方だ。


電車に乗り込むと、座席に座って皆を見回した。テオはエマの肩に寄りかかりながら、地図を広げている。エマは少し照れくさそうにしながらも、テオの話を聞いてやる。エレナはヒカリに窓の外の景色を見せながら、優しく語りかけている。


この大所帯での小旅行。テオの策略に巻き込まれた形だけど、きっと悪くない思い出になる。医学生としての俺にとって、こういう日常のひとときが、何よりの癒しなのかもしれない。


電車が走り出す振動を感じながら、俺は静かに目を閉じた。春休み、結局こうなったけど――まあ、たまにはこういうのも、いい。


到着した温泉街は、想像以上に賑わっていた。硫黄の匂いが微かに漂い、通りには土産物屋が並ぶ。テオは早速「饅頭! 饅頭買おう!」と走り出し、エマに引き戻される。


旅館にチェックインすると、広々とした和室が用意されていた。ヒカリ用のベビーベッドまで完備されていて、エレナが感激している。


夕食の時間、テーブルに並ぶ料理の豪華さに皆が驚いた。新鮮な魚介、温泉で温めた野菜、名物の饅頭まで。テオは目を輝かせて箸を進める。


「うまい! これだから旅行はいいんだよな!」


エマは笑いながらも、テオの食べ過ぎを注意する。エレナはヒカリに離乳食を食べさせながら、時折俺を見て微笑む。


食後、露天風呂に入った。家族風呂を予約しておいてよかった。ヒカリはエレナと一緒に、エマも女湯で。俺とテオは男湯でゆっくり浸かる。


「ハヤト、ありがとうな。来てくれて」


テオが珍しく真面目な顔で言った。


「お前の策略だろ」


俺は笑ったけど、テオは首を振る。


「いや、みんなで来られてよかったよ。エマも喜んでるし、エレナちゃんもヒカリちゃんも」


その言葉に、俺は頷いた。確かに、皆の笑顔を見ていると、来てよかったと思う。


夜、布団を並べて寝る準備をする。ヒカリは早々に眠り、エレナが優しく子守唄を歌っている。テオとエマは隣で小さく話している。


俺は天井を見上げながら、今日一日のことを振り返った。疲れているはずなのに、心は軽い。医学生の俺にとって、こういう時間は貴重だ。命と向き合う毎日の中で、こうして大切な人たちと過ごす平凡な幸せが、何よりの支えになる。


結局、テオの策略で大所帯の小旅行になってしまったけど――これは、きっと忘れられない春休みになる。

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