第125話 春休み、子育てに集中したいのに、親友がどこか行こうと言い出した件
ようやく進級試験が終わった。ルミエールアカデミー医療専門学校大学部の六年生の春休みだ。まだ三月も半ばで、春休みはたっぷり残っている。俺、ハヤト・キサラギは、獅子寮の自室でヒカリを抱きながら、窓の外に広がる桜の木を眺めていた。蕾はまだ固く閉じているのに、枝先がほんのりピンクに染まり始めていて、春の訪れを静かに告げている。試験の重圧からようやく解放された体は、まるで長い間張り詰めていた糸が切れたようにふわふわと軽かった。でも、その軽さをすぐに埋め尽くすのは、腕の中にいるヒカリの確かな重みと温もりだった。一歳になったヒカリの体は、生まれたばかりの頃の儚さとは比べものにならないほどしっかりしていて、俺の胸に預けられた小さな頭の重さが、俺の存在をしっかりと地に繋ぎ止めてくれる。
ヒカリは今、俺の膝の上で体をくねらせて窓の外を指差している。
小さな指が桜の木に向かって伸び、何かを強く訴えるように口をもごもごさせている。言葉はまだ「まんま」や「ぱぱ」くらいしか出ないけれど、その瞳に宿る好奇心ははっきりと伝わってくる。
きっと、あのピンクの蕾が気になっているんだろう。俺はヒカリの指をそっと握り返し、耳元で囁いた。
「もうすぐ咲くよ、ヒカリ。お前と一緒に、今年も桜を見よう」
そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。去年の春、ヒカリはまだ生まれたばかりで、俺たちは病院の窓からしか桜を見られなかった。
あの頃の不安と緊張が、今は遠い記憶のように感じる。ヒカリがここまで元気に育ってくれたこと、エレナがそばにいてくれること。それだけで、俺の心は満たされていた。
隣ではエレナが、床に座布団を敷いて参考書を広げていた。退院してから母親業に専念するため、学校は条件付きで休学中だ。それでも彼女は勉強をやめない。毎日少しずつページを進めている姿を見ると、俺はいつも胸が締めつけられるような思いをする。
十六歳で母親になったエレナは、天真爛漫な笑顔の裏で、どれだけの覚悟を決めてきたのか。俺はそれを思うたび、彼女を守りたいという気持ちが強くなる。
「ハヤトにぃに、ヒカリ今日も元気だね」と、エレナがページをめくりながら笑った。その声は、少女の明るさと母親の優しさが溶け合った独特の響きで、俺の心をいつも柔らかく包み込んでくれる。
俺はヒカリの背中をゆっくり撫でながら、頷いた。
「ああ、朝からずっとご機嫌だ。お前が離乳食を丁寧に作ってくれたおかげだな」
エレナは照れたように頰を赤らめ、参考書に視線を落とした。でもすぐにまた顔を上げて、俺とヒカリを交互に見つめる。その瞳に満ちた純粋な喜びが、俺の胸を熱くする。
試験期間中はエレナにほとんど任せきりだった。夜遅くまで勉強しながら、ヒカリの夜泣きにも対応してくれた彼女の疲れた顔を思い出すと、今でも申し訳なさが込み上げる。だからこそ、この春休みは少しでもエレナの負担を減らしたい。家事も、ヒカリの世話も、できる限り俺が引き受けるつもりだ。まだ春休みは始まったばかり。ゆっくりと、家族の時間を味わいたいと思っていた。
そんな穏やかな午後の時間に、突然ドアが勢いよく開いた。入ってきたのはテオ・アルトだ。いつものようにコンビニの袋を両手に抱え、満面の笑みを浮かべている。
「よお、ハヤト! 進級試験お疲れ! やっと終わったな!」
テオの明るい声が部屋に響き渡る。ヒカリがびっくりしたように体を硬くして、俺の胸に顔を押しつけた。俺は苦笑いしながら、ヒカリの頭を優しく撫でた。
「おい、テオ。いきなり大声出すなよ。ヒカリが驚くだろ」
心の中では、テオのこの無邪気さが少し羨ましかった。俺も昔はあんな風にのんきに振る舞えた時期があった。でも今は、ヒカリの小さな反応一つ一つが俺の行動を制限する。それが苦しいのではなく、むしろ愛おしい。
テオは「あ、ごめんごめん」と小さく舌を出して、袋をテーブルに置いた。中から甘い菓子の匂いが漂ってくる。テオはソファにどっかり座ると、早速袋からチョコレート菓子を取り出して口に放り込んだ。
「でさ、春休みまだまだあるし、気晴らしにどこか行こうぜ! 二泊三日くらいでさ、温泉とかどうよ? エマも一緒に! みんなでリフレッシュしようって話になってるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず頭を抱えた。頭の中を、さまざまな思いが駆け巡る。確かに試験は終わった。長かった勉強の日々から解放された安堵感は本物だ。でも、今の俺にとってのリフレッシュは、遠くへ旅行に行くことじゃない。ここで、ヒカリの小さな息遣いを聞き、エレナの笑顔を見守ることだ。子育ての日常は疲れる。でも、その疲れの中にこそ、俺の幸せがある。二泊三日も家を空けたら、ヒカリはどうする? エレナ一人に任せるなんて、考えただけで胸が痛む。春休みはまだ長い。それを全部旅行に使うなんて、俺には想像もできない。
エレナも参考書から顔を上げて、テオをじっと見ていた。少し困ったような笑みを浮かべているが、その瞳には優しさが宿っている。テオはそんな俺たちの反応に気づかず、チョコを頰張りながら続ける。
「ほら、六年生の春休みだぜ? 国家試験の前だし、息抜き必要だろ! 温泉でゆっくりして、うまいもの食べてさ。エマも乗り気なんだよ!」
エマも乗り気? その瞬間、俺は背後で気配を感じた。振り返ると、エマ・リンデンがドアの枠にもたれて立っていた。いつ入ってきたのかわからない。腕を組んで、呆れたような顔でテオを見下ろしている。俺はエマの表情を見て、少しほっとした。彼女はいつも冷静で、俺の状況をちゃんと理解してくれる。
「テオ、そんな暇どこにあるのよ」
エマの声は静かだが、鋭い。テオはチョコを口に入れたまま、慌てて振り向いた。
「え、エマ! いつからそこに……」
「最初からよ。あなたが勝手に盛り上がってるだけで、私はそんな話してないわ」
エマはため息をついて、部屋に入ってきた。ヒカリがエマの姿を見つけて、小さく手を振るような仕草をした。エマはそれを見て、表情を和らげてヒカリに近づいた。
「こんにちは、ヒカリちゃん。今日も可愛いわね」
その声に、優しさが溢れている。ヒカリはエマの指に自分の小さな手を伸ばして、ぎゅっと握った。エマは優しく笑って、俺の方を見た。
「ハヤト、ごめんね。こいつがまた突っ走っちゃって」
俺はヒカリをあやしながら、首を振った。
「いや、いいよ。気持ちは嬉しい。本当に」
心の底からそう思っていた。テオの誘いは、俺がまだ“普通の学生”でいられる時間を思い出させてくれる。でも、今の俺はもう普通じゃない。父親で、家族を守る立場だ。その自覚が、俺を強くしている。
エレナが小さく頷いた。
「うん、私もハヤトにぃにとヒカリちゃんと一緒にいたいな。旅行はまた、もっと先でいいよ」
テオは少し肩を落とした。チョコの袋をテーブルに置いて、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そっかあ……。まあ、確かにハヤトは今大変だもんな。俺、ちょっと空気読めてなかったかも」
その言葉に、俺は胸が温かくなった。テオはのんきだけど、根は優しい。親友だからこそ、俺の本当の気持ちを汲み取ろうとしてくれる。
エマがテオの隣に座って、軽く頭を叩いた。
「ちゃんと状況見てよね。ハヤトは子育て中なんだから」
テオは「いたっ」と言いながらも、すぐに笑顔に戻った。
「わかったわかった! じゃあ、旅行はまた今度ってことで! 春休みまだ長いんだし、今日は軽くでいいから、みんなで何かしようぜ!」
俺はヒカリの顔を見下ろした。ヒカリはまだ元気そうで、俺のシャツを小さな手で握っている。その温もりが、俺の決断を後押しする。
「テオ、気持ちはありがたいけど、今日はパスでいいか。ヒカリのペースもあるし、エレナも勉強中だ」
そう言った瞬間、少し寂しさが胸をよぎった。でも、それはすぐにヒカリの笑顔で消された。
テオは少し残念そうな顔をしたけど、すぐに立ち上がった。
「おう、わかった! 無理に誘っちゃって悪かったな。じゃあ、また近いうちに来るぜ!」
エマも立ち上がって、テオの背中を押した。
「行きましょう、テオ。邪魔しちゃ悪いわ」
二人が部屋を出ていくと、また静けさが戻ってきた。エレナが参考書を閉じて、俺の隣に寄ってきた。
「テオくん、相変わらず元気だね」
「ああ。でも、あいつがいると賑やかでいいよ。春休みまだ長いし、また誘ってくるだろうな」
俺はそう言いながら、心の中でテオに感謝していた。友達がいることのありがたさを、改めて感じる。
エレナは笑って、ヒカリの頰をそっと撫でた。ヒカリは俺の胸に体を預けて、満足げに目を細めている。俺はその小さな体を抱きしめながら、深い安堵と幸福を感じていた。
試験が終わった。春休みが始まったばかりだ。まだたっぷり時間がある。この時間は、遠くへ逃げるためにあるんじゃない。ヒカリの成長を間近で見守り、エレナのそばにいて、彼女の負担を分かち合うためにある。
窓の外では、桜の蕾が少しずつ膨らんでいる。春はまだこれからだ。この春休みは、家族との時間を一つ一つ大切に味わおう。ヒカリの新しい表情、エレナの笑顔、それだけで俺の心は満ちている。
エレナが俺の肩に頭をもたせかけてきた。
「ハヤトにぃに、ありがとう。いつもそばにいてくれて」
俺はエレナの髪をそっと撫でた。
「俺の方こそ、ありがとう。お前たちがいなきゃ、俺は何もなかった」
ヒカリの小さな手が、俺の指を握り返す。その温もりが、俺のすべてだった。春休みはまだ終わらない。これからも、こんな穏やかな日々が続く。それが俺の願いであり、確かな幸せだった。




