第124話 娘よ、頼むから6年生にさせてくれ!
試験室の空気は、氷のように冷えきっていた。ルミエールアカデミー医療専門学校大学部、六年生進級試験の実技試験本番。広い部屋の中央にマネキンが横たわり、試験官三人の視線が俺の背中を射抜く。壁の時計がカチカチと秒を刻む音が、鼓膜を刺すほど鋭く響く。
俺、ハヤト・キサラギは、白衣の袖をまくり上げて一歩踏み出した。ポケットのスマホが、試験開始前から小刻みに震えている。エレナが「絶対にオンラインで応援するから!」と泣きそうな顔で懇願した。結局、ビデオ通話を繋いだままにした。画面は最小化してポケットに収めているが、振動だけは止められなかった。ミュートにしているのに、あの二人の息遣いが、遠くからでも確かに伝わってくる。
「キサラギ君、準備はいいか?」
試験官の声に頷き、マネキンの横に立つ。シナリオは急性心筋梗塞疑いの成人男性。時間は三十分。初期評価から薬剤投与、カルテ記載まで、一つでも致命的なミスをすれば進級は来年だ。
「始め」
合図とともに、俺はマネキンの頸動脈を触診した。脈なし。意識確認、呼吸確認。頭部後屈顎挙上法で気道確保。バッグバルブマスクを接続し、人工呼吸二回。胸骨圧迫に移る。一分間に百二十回のペースで、深く、規則正しく押す。
体は勝手に動く。五年間の訓練が染みついている。だが、ポケットの振動が止まらない。最初は小さな震えだったのに、次第にリズムがはっきりしてきた。小さな手がスマホをぺちぺち叩くような、愛らしい連続した振動。
……ヒカリだ。
最近、ヒカリは突然医学用語を話し始めた。エレナが医学書を読み聞かせている横で聞き耳を立てていたのか、「けあいかくほ!」とか「けつあつ!」とか、たどたどしい発音で言い出すようになった。一週間の命と宣告された子が、今、こんなに元気に俺の試験を応援してくれている。
胸骨圧迫を続けながら、AEDの準備を口頭で指示する。
「AEDを持ってきてください。パッド貼付位置は右鎖骨下と左季肋部……」
その瞬間、振動が激しくなった。スマホが跳ね上がるような勢い。俺は胸が締めつけられる思いで、手を止めそうになった。
想像してしまう。エレナがスマホを床に置き、ヒカリが這い寄って画面を必死に叩いている。ふわふわの髪を揺らしながら、小さな口で「パパ! けあいかくほ!」と叫んでいるんだろう。気道確保、って。あの子の声が、ミュート越しでも心に響いてくる気がした。
「キサラギ君、血圧測定の数値は?」
試験官の声でハッとする。慌ててカフを巻き、聴診器を当てる。数値を読み上げる間も、振動が止まない。ヒカリが「パパ! パパ!」と呼んでいるような気がして、目頭が熱くなった。
血圧は九十の五十。心音確認、肺野聴診。次は静脈路確保。アルコール消毒、十八ゲージの留置針を手に取る。針先が光る。深呼吸を一つ。ここが山場だ。
針を刺す瞬間、また強い振動。まるでヒカリがスマホを両手で握りしめて「パパ! せいみゃくろかくほ!」と全力で応援しているようなリズム。俺は涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。
……ありがとう、ヒカリ。お前がいるから、パパは頑張れる。
針は無事に血管に入り、フラッシュバックを確認。輸液セットを接続する手が、震えていた。でも、それは緊張じゃない。喜びだ。
薬剤投与。アスピリン、硝酸薬、ヘパリン。すべて正確に。PCI適応の判断、搬送指示。
カルテ記載のとき、俺はこれまでのすべてを思い出した。
ヒカリが生まれた日。NICUのガラス越しに見た、あの小さな体。一週間の命と告げられたとき、エレナが俺の手を握りしめて泣いた。十六歳の少女が母親になり、俺が父親になった現実が、胸を潰しそうだった。
毎晩病院に通い、インキュベーターの横で祈った。医学生の知識が、こんなにも無力に感じられたことはなかった。でも、ヒカリは奇跡を起こした。日ごとに強くなり、呼吸器が外れ、ミルクを飲み、笑うようになった。
退院の日、エレナがヒカリを抱いて俺の前に立ったとき、初めて「家族」という言葉が実感として胸に落ちた。
今、獅子寮の狭い部屋で三人で暮らしている。朝、エレナがヒカリにミルクをやりながら「ハヤトにぃに、行ってらっしゃい」と笑う。夜、帰るとヒカリが這って迎えに来て、「パパ!」と抱きついてくる。あの瞬間が、俺の一日のすべてだ。
最近、ヒカリが最初に覚えた言葉は「ママ」じゃなかった。「パパ」だった。エレナが少し拗ねたけど、俺は生涯忘れられない宝物になった。
カルテを提出し、残り時間一分。試験官が静かに頷く。俺はようやくスマホを取り出した。
画面を最大化すると、エレナが涙を浮かべて笑っていた。ヒカリはエレナの膝の上で、両手を広げて俺に向かって叫んでいる。
ミュートを解除する。
「ハヤトにぃに……お疲れさま。本当に、かっこよかったよ」
エレナの声が震えている。そして、すぐに小さな、でもはっきりとした声が続いた。
「パパ! だいすき! ごうかく!」
ヒカリの言葉。まだたどたどしいけど、確かに「パパ、大好き。合格!」と言った。
俺の涙が、ぽろりと落ちた。試験室で、試験官の前で。恥ずかしいなんて思わなかった。ただ、胸が熱くて、息が詰まって。
「ヒカリ……ありがとう。パパも、ヒカリが大好きだ」
エレナが泣き笑いで言う。
「ヒカリ、ずっと『パパ、がんばれ!』って言いながらスマホ叩いてたよ。『パパ、けあいかくほ!』とか『パパ、けつあつ!』とか……もう、止まらなくて」
俺は笑った。涙を拭いながら。
「それが、一番の力になった」
試験室を出て、廊下を歩く。十二月の冷たい風が吹くグラウンドを横切りながら、俺は二人と話し続けた。
寮のドアを開けると、エレナがヒカリを抱いて立っていた。ヒカリが俺を見つけ、すぐに手を伸ばす。
「パパ! かえってきた!」
俺は白衣を脱ぎ、二人を強く抱きしめた。ヒカリの小さな体が俺の胸にぴったりと収まり、エレナの髪の香りが鼻をくすぐる。
「ただいま。……俺の家族」
エレナが俺の背中に腕を回し、ヒカリが俺の首にしがみつく。三人の体温が一つになる。
この瞬間が、俺のすべてだ。
医学生として、父親として、恋人として。これからも、誰も倒れないように。誰も泣かせないように。
ヒカリの小さな手が、俺の頬を撫でる。「パパ、だいすき」
俺はもう一度、二人を抱きしめた。
ありがとう。生きててくれて。俺のそばにいてくれて。
この絆が、俺をどこまでも強くする。




