第123話 娘が可愛くて勉強に集中出来ない件
進級試験前夜、獅子寮の俺の部屋は、いつもより少しだけ緊張した空気に包まれていた。窓の外はもう真っ暗で、街灯の淡い光がカーテンの隙間から差し込むだけ。机の上には教科書が山積みになり、過去問のプリントが散らばっている。明日は六年生への進級試験。本来なら、国家試験の予行演習とも言える大事な一日だ。俺、ハヤト・キサラギはもちろん、テオ・アルトとエマ・リンデンも、ここで一夜漬けを決行するつもりだった。
なのに、どうしてこうなる。
ベビーベッドの中から、小さな声が聞こえてきた。
「ぷあ~……」
それは、まるで世界で一番無垢なため息みたいだった。視線をそっと上げると、ヒカリが両手を天井に向かって伸ばしながら、大きく伸びをしている。ふわふわの薄茶色の髪が少し跳ねて、頬がぷくっと膨らむ。まだ生まれて間もないのに、表情が豊かすぎる。目が合った瞬間、くすぐったそうに目を細めて、にっこりと笑った。
……ああ、もう。
心臓が、文字通り締めつけられるような感覚に襲われる。医学部五年生にもなって、こんなことで動揺するなんて情けない。でも、仕方ない。この笑顔を前にしたら、誰だって理性が溶ける。
「ハヤト、ちょっと集中してよ」
エマが、少し呆れたような優しい声で言った。彼女はいつものようにノートに細かい字をびっしり書き込みながら、ちらりとヒカリを見て、口元を緩める。長い金髪を耳にかける仕草が、なんだか大人びていて、俺の胸がまたざわつく。
「小児循環器のところ、もう三周目でしょ? まだページが進んでないみたいだけど」
「あ、ああ……ごめん。もうちょっとで」
本当は、もう三周どころか四周目に入ろうとしていた。でも、手が止まる。止まってしまう。ヒカリがベッドの中でごろごろと転がり、小さな足をばたばたさせて喜んでいるのが、視界の端で揺れるたび、集中力が霧散していく。
テオが隣でクスクス笑いながら、ポテチの袋をぱりぱりと開けた。こいつはいつもこうだ。試験前でも食欲だけは衰えない。
「お前さ、もう完全に父親モード全開じゃん。ほら、ヒカリもパパのことじーっと見てるぞ」
「見るなって、頼むから言ってくれ……」
俺は小声で呟いた。でも、そんな願いも虚しく、ヒカリはまるで聞きつけたように「うー!」と元気な声を上げた。小さな手がベッドの柵を掴み、必死に体を起こそうとする。まだ立てないのに、一生懸命腰を浮かせて、俺の方に顔を向ける。その健気な姿が、もうたまらない。
胸の奥が熱くなって、息が少し苦しい。医学的に言えば、交感神経が過剰に興奮している状態だ。でも、そんな分析はどうでもいい。ただ、この子がここにいて、こんなに元気でいてくれることが、奇跡のように思える。
一週間しか生きられないと言われた命だった。あの日、産声を上げた瞬間から、俺たちは最悪の覚悟をしていた。エレナは泣きじゃくり、俺はただ立ち尽くすしかなかった。それが今、こうして笑っている。毎日少しずつ大きくなって、声を上げて、俺を「ぱぱ」と呼ぼうとしてくれている。
「可愛すぎるだろ……」
思わず声が漏れた。自分でもびっくりするくらい、素直な言葉だった。
エマが小さく吹き出して、ペンを置いた。
「もう、ハヤトったら。仕方ないわね。ヒカリに完全に負けてるじゃない」
彼女の声は柔らかくて、少しからかうような響きがある。でも、目が優しい。エマはいつもこうだ。ツッコミは鋭いけど、根底には温かさがある。特にヒカリのことになると、表情がとろけるように緩む。
「でも、わかる気持ちはするわ。私だって、つい見ちゃうもの」
そう言って、エマはそっとベッドの方に視線を移した。ヒカリがまた「あうー」と声を上げると、エマの頬がほんのり赤くなる。高度な医学知識を持つ彼女が、こんな赤ちゃんの声一つで動揺するなんて、なんだか新鮮で、俺は少しほっとした。
テオがニヤニヤしながら立ち上がる。
「よし、俺がちょっとあやしてくるわ。お前らはその間に勉強進めとけよ」
「待て、テオ。お前が抱っこしたら、絶対に寝落ちするだろ」
俺は慌てて止めた。こいつは昔から、赤ちゃんを見るとすぐにデレデレになる。妹の世話をしていたと言っても、結局一緒に昼寝して怒られたタイプだ。
「大丈夫だって! ほら、ヒカリも叔父さんのこと待ってるぞ」
テオは得意げにベッドに近づき、そっとヒカリを抱き上げた。瞬間、ヒカリがキャッキャと高い声を上げて笑い、テオの髪を小さな手で掴んだ。ポテチの匂いが染みついているのか、顔をぐりぐりとすり寄せる。
エマが今度は声を上げて笑った。
「もう、ダメね。テオまで完全にやられてるじゃない。今日の勉強、諦めたほうがいいかもよ?」
「諦めない」
俺は必死に教科書に目を戻した。ページをめくる手が、少し震えている。
「絶対に明日受かる。ヒカリに見せてやるんだ。俺が立派な医者になるってこと」
強い気持ちが湧いてくる。でも、次の瞬間――。
ヒカリがテオの腕の中で、俺の方を向いて、両手をいっぱいに伸ばしてきた。
「ぱぱっ!」
まだ言葉になっていないけど、明らかに俺を呼んでいる。大きな目が、期待に満ちて輝いている。
……もう、限界だ。
俺は教科書をそっと閉じて立ち上がり、テオからヒカリを受け取った。温かくて、信じられないくらい軽い体。小さな頭が俺の胸にぴったりと収まる。ヒカリは満足そうに、ふうっと息を吐いて、俺のシャツをぎゅっと掴んだ。
その瞬間、俺の中の何かが決壊した。
試験なんて、どうでもいいわけじゃない。でも、今この子を抱いていることのほうが、ずっとずっと大事だと思えてしまう。ヒカリの小さな心臓が、俺の胸に伝わってくる。規則正しく、力強く、生きている証を刻んでいる。
エマが静かに立ち上がって、俺の隣に寄ってきた。
「少し休憩にしましょう? ヒカリも、もう眠そうなんだから」
彼女の声は優しくて、どこか包み込むようだった。テオもポテチを食べ終えて、にこにこしながら頷く。
「だな。父親業も大事だぜ、ハヤト。俺たちも、叔父さん叔母さんとして手伝うからさ」
俺はヒカリの小さな背中を、ゆっくりと撫でた。細い髪の毛が指に絡まる感触が、愛おしい。
「ありがとう……二人とも」
言葉が自然に出た。照れくさいけど、素直に言えた。
部屋の中は、しばらく静かになった。ヒカリの小さな寝息だけが、規則正しく響く。エマは俺の隣に座り直して、ヒカリの小さな手をそっと握った。テオは床に座り込んで、スマホで何か赤ちゃんの動画を探し始めた。
俺はヒカリを抱いたまま、窓の外を見た。夜空には星がいくつか瞬いている。エレナは今、隣の部屋で眠っているはずだ。彼女も明日、試験の応援に来てくれると言っていた。
この子のために、俺は医者になる。どんなに大変でも、どんなに眠くても、絶対に諦めない。
でも今は、少しだけ――この温もりを、味わっていたい。
ヒカリのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。長い睫毛が影を落として、小さな口が少し開いている。完全に眠りに落ちた。
俺はそっとベッドにヒカリを戻し、毛布をかけた。エマが微笑みながら、俺の肩に軽く手を置く。
「さあ、もう一度頑張ってみましょう? 今なら、少し集中できそうよ」
「ああ……そうだな」
俺は再び机に向かった。今度は、ヒカリの寝顔が視界の隅にあるだけで、なぜか力が湧いてくる。
試験は明日だ。でも、俺には守りたいものができた。それが、どれだけ強い原動力になるか――今、はっきりとわかる。
テオがポテチの袋を片付けながら、小声で言った。
「ハヤト、お前、いいパパになるよ。絶対」
エマも頷いて、優しく笑う。
「私たちも、ちゃんと見守ってるからね。ヒカリも、エレナちゃんも――そして、ハヤトも」
その言葉が、胸の奥に染みていく。
俺は教科書を開き直した。小児心不全の病態生理のページ。ヒカリが乗り越えた、あの病気。
今度は、俺が向き合う番だ。
静かな夜が、更けていく。獅子寮の小さな部屋で、俺たちはそれぞれの想いを胸に、明日に向かってページをめくった。
ヒカリの寝息が、優しく響き続ける。
それが、俺の最高のBGMだった。




