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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第122話 言葉を覚えた娘が、医学用語を話し出した件

ヒカリが一歳と三ヶ月を迎えた頃、彼女の言葉の爆発が始まった。それまで俺は、子どもの言語発達がこんなに急激に進むものだとは知らなかった。最初は「パパ」「ママ」「ミルク」「ねんね」といった、どの赤ちゃんも最初に覚えるような単純な言葉ばかりだった。それが可愛くて、毎晩寝かしつける時に繰り返し言わせては、胸が熱くなった。


でも、最近のヒカリは明らかに違う。まるで誰かが彼女の頭の中に医学辞典を詰め込んだかのように、専門用語をぽんぽんと口にするようになった。


その日も、放課後の獅子寮の自室で、俺はヒカリを抱いて膝の上に座らせ、いつものように絵本を開いていた。窓から差し込む夕陽が、部屋を柔らかくオレンジ色に染めている。エレナはキッチンで離乳食を温めていて、時折こちらを振り返って微笑んでいる。穏やかな、幸せな時間だった。


ヒカリが突然、俺の首にかけていた聴診器に小さな手を伸ばした。彼女の指先が、冷たい金属のダイアフラムに触れる。


「ステトスコープ」


俺は一瞬、息を止めた。耳を疑った。絵本を持つ手が止まり、ページの上で凍りついた。


「……ヒカリ、今、なんて言った?」


彼女はにこにこと笑いながら、もう一度、はっきりとした発音で繰り返した。


「ステトスコープ! ハート、きくの!」


完璧だった。英語の発音も、アクセントも、まるで教科書を読み上げているかのように正確だ。一歳の子どもが、聴診器の正式名称を言った。それも、ただの「おいしゃさんごっこ」の道具としてではなく、ちゃんと用途を理解して。


俺は慌ててエレナの方を見た。彼女はスプーンを片手に、くすくすと肩を震わせている。明らかに知っていた顔だ。


「エレナ……聞いてたよな? 今、ヒカリが……」


「ええ、昨日からよ。最初は『ステトスコープ』って言った時、私もびっくりしたわ」


「昨日から? なんで言わなかったんだよ」


「ハヤトにぃにの反応が見たくて」


悪戯っぽい笑みだ。俺はため息をついた。でも、心のどこかで嬉しさが湧き上がるのを抑えられなかった。この子は、本当に俺たちの娘なんだな、と。


その夜、夕食を終えて少し経った頃、テオとエマが部屋にやってきた。テオはいつものように、コンビニの新作スイーツを袋いっぱいに抱えて。


「おー、ヒカリちゃん! テオおじちゃんが来たよー!」


テオは大げさに両手を広げて、ヒカリを抱き上げた。ヒカリは最初こそ少し驚いた顔をしたが、すぐにテオの顔を見てにっこり笑った。


テオが得意げにヒカリを高く持ち上げながら言った。


「さあ、ヒカリちゃん、テオおじちゃんに何か言ってごらん! 『テオおじちゃん大好き!』とかさ!」


ヒカリは真剣な表情でテオの顔を見つめ、ぽんぽんとそのお腹を小さな手で叩いた。


「インスリン、足りない?」


部屋が一瞬、静まり返った。


次の瞬間、テオが盛大に吹き出した。口の中に入れていたクッキーが喉に詰まり、激しく咳き込む。エマが慌ててテオの背中を叩きながら、呆れたような、笑いを堪えたような声で言った。


「ちょっとテオ、大丈夫!? ……って、ヒカリ、よくわかってるわね」


俺は膝から力が抜けた。インスリン不足。テオの過食傾向を、的確に、しかも医学的に指摘している。一歳の子どもが。


テオは咳が収まると、涙目で笑いながらヒカリを見下ろした。


「うわ……俺、ディスられた……完全にディスられたよ……」


「テオ、普段の食生活が悪いのよ。自業自得でしょ?」


エマが冷静にツッコミを入れる。ヒカリは満足そうにテオの頬を両手で挟み、もう一度言った。


「グルカゴン、出て!」


テオが再び咳き込んだ。今度は笑いと驚きで。


俺は完全に頭を抱えていた。この子はどこまで知っているんだ。ホルモンの名前だけでなく、対向ホルモンまで理解しているのか。


エマがヒカリを抱き取って、自分の白衣のポケットから電子体温計を取り出した。ヒカリはそれを掴むと、得意げに言った。


「タイマリー・サーミスタ!」


エマの目が丸くなった。


「電子体温計の測温方式まで……ハヤト、これどういうこと?」


「俺に聞くなよ……エレナの影響だろ、絶対」


でも、心のどこかで、自分も毎日医学書を広げて勉強している姿をヒカリが見ていることを思い出した。俺が独り言のように症例を呟いているのを、彼女が聞いていたのかもしれない。


夜遅く、ヒカリをようやく寝かしつけた後、俺とエレナはリビングのソファに並んで座っていた。部屋は静かで、ヒカリの小さな寝息だけが聞こえる。


俺はエレナに向かって、半ば本気で言った。


「なあ、エレナ……ヒカリに医学用語、教えすぎじゃないか?」


エレナは少し照れたように笑った。


「だって、ハヤトにぃにがいつも難しい話してるんだもん。私も一緒に勉強してるし、ヒカリも聞いてるのよ。きっと真似してるだけ」


「真似で、あんなに正確に発音できるか? しかも意味まで理解して使ってるぞ。今日の『インスリン足りない』とか、完璧な診断だろ」


エレナが目を細めて、俺の肩に頭を寄せてきた。


「ハヤトにぃにに似てるのね。真面目で、ちゃんと理解しようとするところ」


「俺はまだ医学生だぞ。ヒカリに抜かされる日が来るかもしれない」


そう言った瞬間、俺の胸に複雑な感情が湧き上がった。誇らしい気持ちと、少しの不安と、そして何より深い愛情。


この子は、生まれた時、一週間の命しかないと言われた。あの時の絶望を思い出すと、今こうして元気に言葉を話す姿が、奇跡のように感じる。医学の知識を吸収していく姿が、生きている証のように思える。


俺はエレナの手を握った。


「明日から、逆にヒカリに勉強教えてもらおうかな」


「え、本気?」


「ああ。『パパ、LDLコレステロールが高いのは動脈硬化のリスクファクターだよ』とか言われたら、もう医学生としてのプライドが粉々だ」


エレナがくすくすと笑った。


「ハヤトにぃに、負けず嫌いね」


「当たり前だろ。この子が俺たちを超えていくなら、せめてちゃんと見届けたい」


ベッドの方から、小さな声が聞こえた。ヒカリが寝言で呟いている。


「ハイポクラテス……」


俺とエレナは顔を見合わせた。ヒポクラテスの誓い。医者の倫理の原点だ。一歳の子どもが、夢の中でそんな言葉を口にする。


俺は立ち上がって、そっとベッドに近づいた。ヒカリの小さな手に、自分の指を絡めた。温かい。確かな命の熱。


「ヒカリ、お前は本当にすごいな」


心の中で呟いた。この子に振り回される日々は、きっとこれからも続く。勉強を教える側が、教えられる側になる日が来るかもしれない。それでもいい。この子が健やかに育つなら、俺の知識なんてどうでもいい。


エレナが後ろから抱きついてきた。


「ハヤトにぃに、ありがとう」


「何が?」


「ヒカリを、こんなに元気に育ててくれて」


俺は振り返らずに、エレナの手を握り返した。


「俺こそだよ。エレナがいてくれたから、ここまで来られた」


窓の外には、満天の星が広がっていた。ルミエールアカデミーの夜は静かで、明日への期待を優しく包み込む。


ヒカリの寝息が、規則正しく続く。この子が次にどんな言葉を覚えるのか、ちょっと怖いけど、すごく楽しみだ。


医学生の俺にとって、放課後の地獄は、まだまだ続きそうだった。でも、それは幸せな地獄だ。

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