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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第121話 可愛すぎる娘が、学園のアイドルみたいになった件

午後の陽光が講義室の大きな窓から差し込み、埃の粒子を金色に輝かせていた。ルミエールアカデミーの医療専門学校大学部、獅子寮と蛇寮の合同授業が行われるこの部屋は、普段なら張り詰めた空気で満ちている。両寮の生徒たちは互いに距離を置き、視線を交わすことすら避けがちだ。蛇寮の連中は特に、どこか上から目線で俺たち獅子寮を見下している節があった。


俺、ハヤト・キサラギは、後ろの隅の席に腰を下ろし、ノートを広げていた。膝の上には、柔らかな毛布に包まれたヒカリがちょこんと乗っている。まだ0歳になったばかりの娘は、俺の胸に小さな頭をもたれかけ、時折ぴくぴくと指を動かして眠っていた。温かさが伝わってくる。こんな場所に連れてくるのは本当は気が引けたが、エレナが朝から高熱を出して寝込んでいる。エレナは「ハヤトにぃに、ごめんね……」と弱々しく謝りながら、ヒカリを俺に預けた。あの天真爛漫な笑顔が、今日は少し青白くて、心が痛んだ。


テオが隣で、いつものようにチョコレートの包みを開けようとして、エマに肘で小突かれている。


「テオ、授業中よ。匂いが広がったらどうするの」


「えー、でもお腹すいたんだもん。ハヤトの娘ちゃん見てたら、なんか甘いもの食べたくなっちゃってさ」


テオは悪びれず笑う。こいつのこの斜め上の発想が、俺たちをいつも和ませてくれる。エマはため息をつきながらも、視線をヒカリに移して、珍しく柔らかい表情になった。


「本当に可愛いわね……。こんな小さな子が、もうしっかりお父さんの匂いを覚えてるみたい」


エマの言葉に、俺は少し照れた。確かにヒカリは、俺の制服の胸元に顔を埋めて、安心したように息を吐いている。俺はそっと娘の背中を撫でた。小さな体が、俺の手のひらにすっぽり収まる。この子が生まれてから、俺の人生は一変した。一週間の命と言われたのに、今こうして元気に息をしている。奇跡だと思う毎日だ。


教授が入室し、授業が始まった。小児科学の実習で、今日は赤ちゃんの人体模型を使って、基本的な抱っこやミルクの与え方、沐浴の手順を学ぶ予定だった。教授は俺の膝の上のヒカリを見て、苦笑いを浮かべた。


「キサラギ君、今日は実物を持参か。まあ、模型より勉強になるだろう。邪魔にならない範囲で頼むよ」


周囲から小さな笑いが漏れる。蛇寮の生徒たちは、最初は冷ややかな視線を向けてきた。特に最前列に座るマルクス・ヴェルナーは、いつものように腕を組んで、俺を値踏みするような目で見ていた。あいつは学園の裏で金と権力を振りかざし、俺に嫌がらせを仕掛けてくる影の王だ。ヒカリが生まれてからも、何度か嫌みを言われたことがある。


授業が十分ほど進んだ頃だった。教授が模型の抱き方を説明している最中、ヒカリが突然目を覚ました。ぱっちりと開いた瞳が、講義室の天井を見上げ、そして俺の顔を見つめる。「うー……」と小さな声が漏れた。俺は慌ててあやそうと、軽く揺すった。


だが、次の瞬間――ヒカリが大きな声を出した。


「うーあー!」


講義室が一瞬、静まり返った。教授の手が止まり、生徒たちの視線が一斉に俺たちに向けられる。ヒカリは俺の膝から上半身を起こし、ぷくっと頬を膨らませて、にっこりと笑った。まだ歯が生え揃っていない口元から、よだれが少し垂れる。それがまた、無垢で愛らしい。


最初に反応したのは、蛇寮の女子生徒だった。隣の席の子が、思わず声を漏らした。


「……可愛すぎる」


その言葉がきっかけだった。次々と声が重なる。


「え、何あの赤ちゃん……天使じゃない?」


「目がキラキラしてる……大きすぎて、吸い込まれそう」


「髪の毛ふわふわ……触りたい……」


獅子寮の生徒たちも立ち上がり、そっと近づいてくる。普段は厳しい表情の男子生徒が、珍しく頬を緩めている。女子生徒たちは目を輝かせて、スマホを構えようとして我に返り、慌てて下ろした。


ヒカリはさらに調子に乗った。両手をばたばた振って、「ばぶー!あーう!」と叫びながら、俺の肩にしがみついて立ち上がろうとする。まだ首が完全に据わっていないのに、必死の形相だ。俺は慌てて腰を支え、転ばないように抱きかかえた。その仕草を見た誰かが、息を飲んだ。


「守られてるみたい……尊い……」


「パパが優しい……」


俺は顔が熱くなった。普段、弱気に見られることはないつもりだが、こんな風に注目されると、どうしても照れてしまう。テオが小声で耳打ちしてきた。


「ハヤト、お前の娘、学園のアイドルデビューだな。もう授業どころじゃねえよ」


エマも頷き、珍しく笑みを浮かべている。


「間違いないわ。見て、マルクスまで固まってる」


視線を向けると、最前列のマルクスが、確かに動きを止めていた。いつも冷笑を浮かべる唇が、わずかに開いている。ヒカリがちょうど彼の方を向き、無邪気に手を伸ばした。「あーう!」と笑顔を振りまく。大きな瞳が、まるで宝石のように輝いている。


マルクスは一瞬で真っ赤になった。耳まで赤く染め、視線を逸らして咳払いをした。周囲から「マルクスが照れてる!?」「ありえない!」とどよめきが上がる。あいつは普段、誰にも弱みを見せないのに、ヒカリの笑顔一つで完全に崩されたらしい。


教授も諦めたように笑い、模型を片付けた。


「よし、今日は予定変更だ。実践的な小児対応の実習にしよう。キサラギ君の娘さんをモデルに、順番に抱っこや触れ合いを体験する。優しく、丁寧に頼むよ」


生徒たちは歓声を上げて並び始めた。蛇寮の生徒たちまで、遠慮がちに列に加わる。最初に抱っこしたのは、獅子寮の女子生徒だった。緊張した面持ちでヒカリを受け取ると、ヒカリは彼女の顔をじっと見て、突然くすくすと笑った。女子生徒は目を潤ませて、「ありがとう……」と呟いた。


次は蛇寮の男子生徒。普段はマルクスの取り巻きで、俺に冷たい態度を取るやつだ。だが、ヒカリを抱くと、ぎこちなく揺すりながら、「軽いな……温かい……」と独り言のように言った。ヒカリが彼の指をぎゅっと掴むと、表情が溶けたように緩んだ。


順番が回ってきて、マルクスが立ち上がった。周囲が息を飲む。あいつは渋々といった様子で近づき、俺からヒカリを受け取った。最初は硬い表情だったが、ヒカリが彼の顔を両手でぱたぱたと触ると、目に見えて動揺した。


「こ、これは……」


ヒカリは楽しそうに笑い、マルクスの頬をつついた。マルクスは完全に敗北した。赤くなりながらも、そっとヒカリを抱きしめ、背中を撫で始めた。その仕草が意外に優しくて、周囲が驚きの声を上げた。


「マルクス、意外と上手い……」


「なんか、似合ってる」


マルクスはヒカリを返しながら、小声で言った。


「……悪くないな」


それが精一杯の褒め言葉だろう。俺は内心で苦笑した。あいつがこんな顔をする日が来るとは。


一時間近く、授業はヒカリを中心に進んだ。生徒たちは抱っこの仕方、視線の高さ、声のかけ方を学びながら、ヒカリの無邪気な反応に癒されていた。普段の対立なんて、どこかに吹き飛んでいた。獅子寮と蛇寮の生徒が、一緒にヒカリをあやしている姿は、まるで家族のようだった。


最後に、教授が締めくくった。


「今日学んだのは、医学的な知識だけじゃない。小児に対応する際の、心の余裕と優しさだ。キサラギ君、ありがとう」


生徒たちから拍手が起こった。ヒカリは疲れたのか、俺の胸で再び眠りについていた。小さな寝息が、俺の制服に伝わる。


講義室を出る頃、蛇寮の生徒たちが俺に頭を下げてきた。


「キサラギさん、今日はありがとうございました。また……連れてきてください」


「ヒカリちゃん、最高でした」


俺は少し照れながら頷いた。テオが肩を叩き、エマが微笑む。


帰り道、獅子寮への廊下を歩きながら、俺はヒカリの髪をそっと撫でた。この子は、本当にすごい。一週間の命と言われたのに、今こうして皆を笑顔にしている。エレナに会ったら、今日のことを話そう。きっと喜ぶだろう。


頼むから、誰も倒れないでくれ……と思ったけど、今日はみんな、ヒカリの可愛さに心を奪われて、倒れたように癒されたみたいだ。


俺は娘を抱きしめながら、静かに笑った。この子がいる限り、俺の放課後は地獄なんかじゃない。きっと、天国だ。

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