第120話 可愛すぎる娘が、規律に厳しい先生を黙らせた件
正直に言う。
この日ほど、俺は勉強と子育ての両立に疲れ切っていた日はない。
朝から講義、実習、レポート。合間にヒカリの世話。
エレナは母親業に専念するため休校中だが、十六歳という年齢を考えれば、全部を任せきるわけにはいかない。結局、俺が抱える割合は多い。
それでも、踏ん張っていた。
国家試験を控えた身として、逃げるわけにはいかない。
――だが。
「ハヤト・キサラギ。少し、時間をもらえるか」
廊下で呼び止められた瞬間、嫌な予感しかしなかった。
振り返ると、そこに立っていたのは、ルミエールアカデミーでも有名な人物。
規律第一、前例重視、融通という言葉を知らない教師。
かつて、俺とエレナの交際を問題視し、
未成年であるエレナを守るという名目のもと、
仮の婚約者という形を強引に作り上げ、
仮の婚姻届まで書かせた張本人。
俺は一歩前に出た。
「今はヒカリを——」
「その子も含めてだ」
視線が、俺の腕の中に移る。
ヒカリは、ちょうどご機嫌だった。
小さな手をぶんぶん振り、俺の服を握っては離す。
「だー。あー。うー」
規律教師は、一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
だがすぐに咳払いをして、表情を引き締める。
「この状況について、正式に話をする必要がある」
逃げ場はない。
俺は静かにうなずいた。
――応接室は、相変わらず無機質だった。
余計な装飾のない机、きっちり並んだ椅子、無駄のない空間。
ヒカリは、そんな空気など一切気にせず、俺の腕の中で身体をよじらせている。
「だぁー」
小さな声が、やけに響いた。
教師は椅子に腰を下ろし、俺とエレナを交互に見る。
「まず確認する。二人の関係は、あくまで“仮”だな」
来た。
俺は即答する。
「……書類上は、そうです」
「ふむ」
エレナが、俺の隣で背筋を伸ばす。
「でも、ヒカリは私たちの娘です」
教師の眉が、わずかに動いた。
「それが問題だと言っている。規律は——」
その瞬間だった。
ヒカリが、教師の方に顔を向けた。
じっと。
本当に、じっと見つめて。
「……あー?」
首をかしげる。
丸い目が、きらきらしている。
沈黙が落ちた。
教師は言葉を続けようとして、止まった。
視線が、ヒカリから離れない。
「……」
「だー」
ヒカリは小さく手を伸ばし、空を掴むように指を動かす。
完全に、興味を持った仕草だった。
俺は内心で思う。
やめろ。
今は刺激するな。
だが――
「……抱っこ、されたいのか?」
教師が、信じられないことを口にした。
エレナが目を見開く。
「え?」
「だー!」
ヒカリは、嬉しそうに声を上げた。
完全に肯定だ。
俺は反射的に言った。
「……失礼ですが」
「……少しだけだ」
教師は立ち上がり、ぎこちない動きで両腕を差し出した。
俺は慎重にヒカリを渡す。
落とすわけにはいかない。
だが、教師の腕は思った以上に安定していた。
「……軽いな」
「はい。まだ、零歳です」
「そうか……」
教師は、ヒカリを見下ろす。
ヒカリは、にぱっと笑った。
「だー!」
完全に、心を撃ち抜く笑顔だった。
教師の口が、わずかに緩む。
本人は気づいていないだろうが、確実に。
「……静かだな」
「ええ。今は機嫌がいいので」
「……そうか」
しばらく、誰も言葉を発さなかった。
ただ、ヒカリが教師の指を握り、
「うー」
と満足そうな声を出す。
その沈黙を、教師が破った。
「……この子は」
「俺とエレナの娘です」
即答した。
迷いはない。
教師はゆっくりとうなずく。
「仮の関係で、生まれる表情ではないな」
エレナが、そっと言う。
「私たち、本気です」
教師はヒカリを見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐く。
「……規律とは、本来、守るためのものだ」
俺は黙って聞く。
「形式を守るために、命や絆を歪めるのは、本末転倒だな」
教師は、ヒカリを俺に返した。
ヒカリは少し不満そうに、
「うー……」
と声を出した。
「……認めよう」
教師の言葉に、空気が変わる。
「君たちは、夫婦だ」
エレナが息を呑む。
「仮ではない。本物として、扱う」
俺は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
教師は背を向ける。
「この子が……そう言わせた」
ヒカリが、俺の腕の中で満足そうに声を出す。
「だー!」
俺は小さく笑った。
娘よ。
可愛すぎるのも、時には武器になるらしい。
……本当に、恐ろしい子だ。




