第12話 揺らぐ心臓音〜精神疲労と愛と迷い〜
病室の灯りは、夜になると独特の静けさを帯びる。
白く均一な光が、どこか冷たく、そして優しい。俺はその光に照らされるエレナを思い出すたび、胸が締めつけられる。
この数週間、俺は毎朝のように同じ悪夢で目を覚ましていた。
実習で見た手術室。救えなかった子どもの記憶。エレナの胸に貼られた電極の冷たさ。心電図の波形が落ちていく瞬間。
心のどこかで、それらが全部ひとつに溶け合い、炎のように胸を焼いていた。
「……っ、はぁ……」
朝日の差し込む寮の部屋で、俺は大きく息を吐いた。汗でシャツが張りつき、喉が渇いている。昨夜はほとんど眠れなかった。
ベッド脇の机には、教科書が無造作に積まれていた。
解剖学、診断学、生理学、そして来週に控える基礎医学の筆記試験の範囲をまとめたノート。
全部、エレナのためだ。高い医療技術を身につけ、必ず救うため。
けれど、その想いが重く、焦燥感に変わりつつあることに、俺自身が気づけていなかった。
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◆心を抉るフラッシュバック
午前の授業。
解剖学の講義中、スライドに心臓の断面図が大きく映し出された瞬間だった。
視界が揺れ、頭の奥で「ピッ……ピッ……ピッ……」と心電図の音が蘇る。
目の端に、蒼白なエレナが見える気がした。
──まただ。
胸に炎がこもるような痛みが走り、呼吸が浅くなる。
「……ハヤト?」
横からエマが俺の袖をそっと引いた。
優しい目が、心配を隠せていない。
「顔色、悪い。無理してるでしょ」
「だいじょうぶだよ。ただ、寝不足なだけ」
そう笑ってみせるが、声は震えていた。
テオが後ろの席から身を乗り出し、
「無理すんなよ、ハヤト。最近マジでヤバいって。お前の“だいじょうぶ”は信用してねぇんだって」
と、わざと明るい調子で言った。
こいつらは……本当にありがたい。
だが、今は彼らの優しさすら胸に刺さる。
講義が終わると、俺はふらつく足を隠すように廊下へ出た。
(…また、だ。こんな調子で本当に試験なんて乗り越えられるのか…?)
自己嫌悪がじりじりと胸を焼く。
エレナを救うはずの俺が、何をやっている。
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◆胸の奥の “罪悪感”
寮に戻ると、そのままベッドに倒れ込んだ。
天井の木目が揺れて見える。
意識が沈むにつれ、エレナの笑顔が浮かんだ。
「ハヤトにぃに、だいすき」
幼いころの声が、胸の奥に蘇る。
……兄以上の気持ちを持ってしまったのは、いつからだろう。
6歳差。
兄として守るはずだった存在に、女として惹かれてしまった俺。
“罪悪感”という言葉が、一番近いのかもしれない。
だからこそ、俺は彼女を救わなくてはならない──
まるで、自分の想いを許すための免罪符として。
そんな卑怯な考えが浮かぶたび、胸が痛くなる。
その痛みが、夜になると悪夢を呼び、
悪夢が疲労を積み重ねて、
疲労がまた罪悪感を呼び起こす。
負のループに絡め取られている。
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◆優しさの処方
午後、ノックの音で目が覚めた。
「ハヤト、入るぞー?」
「静かに。寝てるかもしれないでしょ」
テオとエマの声。
起き上がると、二人が差し入れを持って立っていた。
「今日は休講届け出てたからさ。ほら、スープと……エマ特製のハーブティー!」
「炎症と胃の負担を和らげるブレンドだよ。飲んで」
エマが差し出した瓶を見た瞬間、胸が熱くなった。
──俺は、ひとりじゃない。
こんな単純なことに救われる。
スープの湯気が、冷え切った胸に染みるようだった。
「ありがとう……ほんと、二人がいなきゃ無理だわ」
俺が笑うと、テオは肩をすくめた。
「当たり前だろ。お前、最近マジで倒れそうだしな。
英雄だかなんだか知らんけど、ちゃんと休めよ」
英雄──
それはいつからか、周囲が勝手につけた呼び名。
エレナを救ったあの日から。
その言葉が今は、重荷にしか感じられない。
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◆マルクスという影
夕方、寮の階段で、嫌な気配に足が止まった。
「よう、偽善者くん」
マルクスが数人の取り巻きを連れて俺の前に立つ。
昂りのない、冷めた青い眼。
「試験、近いよな? “完璧”を目指してる英雄さんには悪いが──」
わざとらしく肩をすくめ、
「お前の答案、どうなるかな」
薄く笑った。
「……何が言いたい」
「さぁな。ヴェルナー家を侮らない方が身のためだ。
それに──兄妹愛を拗らせてる暇があるのか?」
胸の奥が抉られた。
あの言葉を言われた瞬間、酸素が薄くなった気がした。
取り巻きがクスクス笑う。
俺は歯を食いしばり、短く言った。
「俺の道に、お前は関係ない」
少しでも表情に迷いを見せたら、負ける気がした。
マルクスの笑みが深まった。
「へぇ──どこまで持つかな」
そう言って階段を降りていく。
背中からしばらく視線が離れない。
心臓の鼓動が、耳の中でうるさく響いた。
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◆小さな光
食堂に行くと、テオが手を振った。
「おいハヤト! 席空けてるぞ!」
エマは優しい笑みで皿を押し出してくる。
「食べられるだけでいいからね。無理しないで」
二人の姿を見た瞬間、張り詰めていた胸の縄が少し緩んだ。
スープを口に運ぶ。
温かさが喉を通り抜け、胸に落ちていく。
(……守られてる)
そんな感覚があった。
ほんの少しだけだが、肩の力が抜けた。
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◆夜。机に向かう理由
部屋に戻り、机の前に座る。
ランタンの火が、ノートの文字を揺らす。
手は震えている。
疲労は限界に近い。
それでもページをめくるのは──エレナのためだ。
彼女の呼吸音、眠る横顔。
あの小さな「愛してる」の呟き。
返ってきた、頬へのキス。
全部が俺を生かしている。
必ず救う。
その決意が、胸で静かに燃えている。
これは燃え尽きる炎じゃない。
光だ。
明日、彼女に会いに行こう。
不安はある。でも逃げない。
愛を胸に秘めて、俺はまたページを開いた。




