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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第119話 娘よ、頼むから大人しくしてくれ!

 その一報を聞いた瞬間、俺は反射的に両手で頭を抱えていた。


「……は?」


 口から出たのは、返事にもならない間抜けな音だった。

 自分でも驚くほど、思考が一瞬止まったのが分かる。


「ヒカリが……ルミエールアカデミーから、脱走しました」


 淡々と告げる職員の声が、やけに遠く聞こえた。


 脱走。

 その単語を、赤ちゃんに対して使う日が来るとは思わなかった。


 俺は額を押さえ、ゆっくりと深呼吸する。

 焦るな。怒るな。まずは状況整理だ。


「……最後に確認された場所は?」


「中等部棟の休憩室です。エレナさんが少し席を外された間に……」


 ああ、なるほど。

 状況は簡単だ。簡単すぎて頭が痛い。


 エレナが一瞬目を離す。

 好奇心の塊みたいなヒカリが、その隙を逃すはずがない。


「分かりました。俺が探します」


 そう言って廊下に出た瞬間、ちょうど走ってきた二人と鉢合わせた。


「ハヤト!」


 テオ・アルトだ。息が少し上がっている。


「聞いたよ! 赤ちゃん脱走事件!」


「事件って言うな」


 即座に突っ込むと、横でエマ・リンデンが冷静に構内図を広げた。


「落ち着いて。赤ちゃんの移動距離には限界があるわ」


「限界を超えるのが、うちの娘だ」


 断言すると、エマが一瞬だけ黙った。


「……否定できないわね」


 テオが妙に感心した顔でうなずく。


「確かに。ヒカリ、潜在能力高そうだもん」


「褒めてない」


 俺は構内図を覗き込み、即座に判断を下す。


「手分けする。テオは中等部棟から実習棟。エマは研究棟。俺は付属医療施設を見る」


「了解!」


「連絡は常に」


 三人同時に走り出す。

 廊下を駆けながら、俺は考える。


 赤ちゃんだ。

 言葉は話せない。だが、音や光、人の気配には敏感だ。

 そして何より——


「……あいつ、病院好きだ」


 新生児室。

 保育器。

 嫌な予感が、妙に具体的な形を持って頭に浮かぶ。


 付属医療施設に入った瞬間、消毒薬の匂いが鼻を突いた。

 この匂いを、ヒカリは知っている。

 生まれてすぐ、何度も嗅いだ匂いだ。


「……ヒカリ」


 小声で呼びながら、歩調を速める。

 廊下は静かで、規則正しい足音だけが響く。


 無線が鳴った。


『ハヤト! 中等部棟、いない!』


 テオだ。声が無駄に元気で、逆に不安になる。


『研究棟も見当たらないわ。監視記録、後で確認する』


 エマの声は冷静だが、若干早口だ。


 俺は新生児室の前で足を止めた。

 ガラス越しに見える、保育器の列。


 ……静かすぎる。


 そっと覗き込んだ瞬間、視界に入った光景に、俺は完全に脱力した。


 保育器の一つ。

 その中で、ヒカリが寝ていた。


「……」


 言葉が出ない。


 小さな体を丸め、すやすやと眠っている。

 まるで「帰ってきました」とでも言うような顔だ。


 しかも、その隣。


 椅子に座ったまま、うとうとしているエレナの姿。


 無線を押す手に、力が入らなかった。


「……見つけた」


『どこ!?』


「付属医療施設。新生児室」


『……』


 一瞬の沈黙。


「……エレナの隣で、保育器に入って寝てる」


『はい?』


 テオの声が裏返った。


『……それ、脱走じゃなくて帰省じゃない?』


「黙れ」


 エマが一拍置いて言う。


『……無事で何よりね。本当に』


 俺はガラス越しにヒカリを見る。

 ヒカリが小さく身じろぎし、口をもごもごさせた。


「だー……うー……」


 寝言だ。

 心臓に悪い。


 その声で、エレナが目を覚ました。


「あ……ハヤトにぃに」


「……何してる」


「ヒカリが、ここに来たくて」


「来たくてじゃない」


 エレナは困ったように笑う。


「気づいたら、保育器の前で落ち着いちゃって」


 俺は天井を仰いだ。


「……アカデミー中、大捜索だぞ」


「ごめんね。でも、静かだよ?」


 確かに静かだ。

 あまりにも平和だ。


 ヒカリが再び口を動かす。


「だぁ……」


 俺は保育器に近づき、ガラス越しにその小さな寝顔を見る。


 この数十分で、心臓が何回縮んだか分からない。


 そのとき、足音がして、テオとエマが駆け込んできた。


「……」


 二人とも、保育器を見て完全に固まる。


「……え?」


「……え?」


「説明は後だ」


 テオが最初に正気に戻った。


「すごいねヒカリ。自力帰還?」


「違う」


 エマが腕を組む。


「でも……本能的に安心できる場所を選んだのね」


 俺は小さく息を吐いた。


「無事で、それでいい」


 それだけだ。


 ヒカリは何も知らず、気持ちよさそうに眠っている。


「だー……うー……」


 俺は小さく呟いた。


「娘よ……頼むから……」


 一拍置いて、続ける。


「次は、もう少し大人しくしてくれ」


 もちろん、返事はない。

 ただ、ヒカリは今日も元気だ。


 ……それでいい。

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