第118話 娘よ、頼むから勉強に集中させてくれ!
獅子寮の談話室は、夜になると別の顔を見せる。
昼間は学生たちの笑い声が反響する場所だが、この時間帯は違う。暖炉の火が低く鳴り、壁に掛けられた古い校章が、じっとこちらを見下ろしている。机の上には参考書と問題集、書き込みだらけのノートが何冊も重なり、紙の匂いとインクの匂いが混ざり合っていた。
俺は椅子に深く腰を下ろし、背筋を伸ばす。
ルミエールアカデミー大学部五年生。
六年生への進級試験が目前で、その先には国家試験が控えている。逃げ道はない。
ペンを握り直し、問題文を目で追う。
集中しろ。
今は考えるより、手を動かす時間だ。
「……循環動態が不安定な新生児への初期対応、か」
小さく呟きながら、俺は要点を書き出す。
余計な感情は排除する。
疲れているのは事実だが、それを理由に止まるつもりはない。
向かいの席では、テオ・アルトが問題集を睨みつけていた。
眉間にしわを寄せ、真剣そのものだが、机の端には菓子袋がひっそりと置かれている。
「テオ、集中しろ」
「してるしてる! してるけどさ……」
テオは腹をさすりながら、苦笑いを浮かべた。
「この問題、脳が糖分を要求してる気がする」
「それは君の脳じゃなくて胃」
即座にエマ・リンデンが切り捨てる。
彼女は俺の隣に座り、ノートを覗き込んでいた。
「ハヤト、そこ。説明が一段浅いわ」
「……ここか」
「ええ。臨床では、その判断一つで結果が変わる」
淡々とした口調だが、内容は的確だ。
俺はすぐに書き足し、うなずいた。
「助かる」
この三人で机を囲む時間は、正直言って効率がいい。
だが――今日は、そう簡単にはいかない予感がしていた。
廊下の奥から、微かな音が聞こえた。
と。
と。
と。
不規則で、小さな足音。
俺はペンを止め、視線を上げた。
「……来る」
エマが一瞬だけ眉を動かす。
「まさか」
その「まさか」は、扉が開いた瞬間に現実になった。
「だー……あー……」
扉の隙間から現れたのは、小さな影。
ヒカリだ。
まだ0歳の娘は、言葉にならない声を出しながら、こちらに向かって両腕を伸ばしている。
完全に俺を認識している動きだった。
「……やっぱりか」
俺は椅子を引き、立ち上がる。
ヒカリを抱き上げると、軽い体重と一緒に、確かな温もりが腕に伝わってきた。
「だー!」
満足そうな声。
それだけで、胸の奥が少し緩むのを感じる。
「完全にハヤト狙いだね」
テオが肩をすくめる。
「そりゃそうだ。今のヒカリにとって、ハヤトは安全装置みたいなものよ」
エマの言葉に、俺は否定しない。
事実だ。
ヒカリは俺の服をぎゅっと握り、顔を埋める。
「うー……」
「……今は勉強中だ」
言っても通じない。
分かっている。
それでも、口に出すのは習慣みたいなものだった。
俺はヒカリを肩に預け、軽く背中を叩く。
落ち着かせるための、いつもの動き。
だがヒカリは、俺のペンに興味を持ったらしい。
小さな手が、狙いを定めて伸びてくる。
「だー!」
「やめろ」
ペンを取り上げ、ノートを閉じる。
集中が、完全に途切れた。
エマが腕を組んで言った。
「この状態で続けるのは無理ね」
「だな」
テオが立ち上がる。
「じゃあ俺があやすよ。ほらヒカリ、こっち」
ヒカリをテオに渡す。
一瞬だけ不安になるが、テオは意外にも慣れた手つきで抱いた。
「だー……?」
「そうそう、いい子いい子」
テオが軽く揺らすと、ヒカリは不思議そうな顔をする。
その隙に、俺はノートを開き直した。
時間は限られている。
完璧じゃなくていい。少しでも前に進めばいい。
だが。
「うー! あー!」
「わっ、力強い!」
テオの声が響く。
ヒカリはテオの前髪を掴み、全力で引っ張っていた。
「……限界ね」
エマがため息をつく。
「交代。ハヤト」
俺は再びヒカリを受け取る。
ヒカリは安心したように、俺の胸に顔を埋めた。
「だー……」
その声に、思わず苦笑する。
「……完全に俺の負けだな」
談話室の隅に移動し、ゆっくりと揺れる。
ヒカリの呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かる。
勉強は止まった。
だが、この時間が無駄だとは思わない。
国家試験のために学び、
命を守るために知識を積む。
そして今、俺の腕の中には、守るべき命そのものがある。
ヒカリの瞼が重くなり、やがて小さな寝息に変わった。
「……寝た」
小さく呟く。
エマが静かにうなずく。
「今のうちに戻しなさい」
俺はヒカリを抱いたまま、エレナの待つ部屋へ向かった。
「ありがとう、ハヤトにぃに」
「起きたら、また来るぞ」
エレナは苦笑した。
談話室に戻ると、机の上はそのままだった。
テオとエマが待っている。
「続けられる?」
「当然だ」
俺は席に戻り、ペンを握る。
娘よ。
頼むから、今夜だけはこのまま眠ってくれ。
俺は、前に進む。




