第117話 一週間の命と言われた娘が、元気すぎて困る件
一週間。
あの日、医師から告げられた言葉は、今でも耳の奥に残っている。
「……長くて一週間でしょう」
俺は、その言葉を否定する材料を何一つ持っていなかった。ヒカリは小さく、呼吸は浅く、体温も安定しなかった。腕に抱くたび、軽すぎるその重みが、現実を突きつけてきた。
それから七日。
今、俺の腕の中で、ヒカリは信じられないほど力強く暴れている。
「ちょ、ちょっと待てヒカリ! 首! 首がまだ完全じゃ――」
俺の制止など聞くはずもなく、ヒカリは両足をばたつかせ、拳を振り回し、全身で「動きたい」と主張してくる。いや、主張どころか、命令だ。要求が激しすぎる。
「ハヤトにぃに、抱き方が甘いんじゃない?」
背後から、呆れと笑いが混じった声が飛んできた。
「甘いって問題か、それ……?」
振り返ると、エレナがミルクの入った哺乳瓶を片手に立っている。母親らしい落ち着いた口調と、年齢相応の無邪気さが同居した、相変わらず不思議な存在感だ。
「ヒカリ、ほら。ミルクだよ」
その声に反応した瞬間、ヒカリの動きがさらに激しくなった。
「おい、待て、跳ねるな!」
腕の中で、ヒカリはまるで小さな嵐だ。元気、という言葉では足りない。生命力が溢れすぎている。
「……元気すぎだろ」
思わず本音が漏れる。
一週間前、保育器の中で静かに眠っていたあの子と、同一人物だとはとても思えない。泣き声は力強く、ミルクの飲みも異常なほど早い。飲み終わればすぐ動き出し、眠ったと思えば短時間で目を覚ます。
医師が首を傾げたのも無理はなかった。
「医学的には説明がつきませんが……」
そう前置きした上で、あの人は確かにこう言った。
「非常に、元気です」
俺は、その言葉を聞いた瞬間、ようやく息ができた気がした。
「ハヤト、交代」
エレナにヒカリを渡す。慣れた手つきで抱き上げた瞬間、ヒカリはぴたりと暴れるのをやめた。
「……なんでだよ」
「安心してるんでしょ。ママだもん」
あっさり言われ、ぐうの音も出ない。悔しいが事実だ。
そこへ、タイミングを計ったかのようにドアが開いた。
「おーい! 今日も元気に暴れてるって聞いてきたぞー!」
陽気な声とともに現れたのは、テオだ。両手に紙袋を提げている。
「それ、また菓子か?」
「違う違う。差し入れと、あと俺の非常食」
「後半が本命だろ」
即座に突っ込むと、テオは笑って誤魔化した。
「まあまあ。育児は体力勝負だからな!」
「それは同意だ」
本気で。
「ハヤト、顔ちょっと疲れてる」
続いて入ってきたエマが、冷静に俺を見て言った。
「寝てる?」
「……細切れにな」
「でしょうね」
容赦がない。
「ヒカリ、成長曲線完全に上振れしてる。心配する方向が変わってきたわね」
「元気すぎて困るとは思わなかった」
「贅沢な悩みよ」
エマはそう言いながらも、ヒカリを覗き込む目は優しい。
「一週間の命、だったのよね」
「ああ」
その言葉を口にするのは、今でも少し重い。それでも、事実として受け止めなければならない。
「だから、今こうして困ってるのが、なんだか夢みたいだ」
ヒカリが、エレナの腕の中で満足そうに眠り始めた。さっきまでの暴れっぷりが嘘のようだ。
「……静かだ」
「嵐は去った?」
「一時的にな」
俺はそう言いながら、椅子に腰を下ろした。肩の力が抜ける。
一週間前、俺は覚悟を決めていた。泣くことも、立ち止まることも許されない状況で、それでも父親として、やるべきことをやると。
けれど今は。
ヒカリが元気すぎて、抱っこで腕が痛いとか、夜に何度も起こされるとか、そんなことで頭を抱えている。
それが、どうしようもなく幸せだ。
「ハヤトにぃに」
エレナが、小さく呼んだ。
「なに?」
「ヒカリ、ちゃんと生きてるね」
「ああ」
即答だった。
「生きてる。しかも全力で」
ヒカリは、小さな胸を上下させながら眠っている。その一つ一つが、確かな証拠だ。
一週間の命だと言われた娘は、今日も元気すぎて俺たちを振り回す。
それでもいい。
いや、それがいい。
俺は、ヒカリが起きてまた暴れ出す未来を思い浮かべながら、次はどうやってあやすかを考えていた。
父親業は、どうやら想像以上に忙しいらしい。




