第116話 命は誕生した。だが、喜ぶには早過ぎた
九ヶ月という時間は、命を迎えるには十分で、覚悟を試すにはあまりにも短かった。
消毒の匂いが染みついた廊下を、俺は早足で進んでいた。靴底が床を打つ音が、やけに大きく響く。頭は冷えている。少なくとも、そう思っていた。けれど胸の奥では、別の鼓動が暴れていた。
「ハヤト」
エマの声に呼び止められる。振り返ると、テオと並んで立っていた。二人とも、表情が硬い。
「エレナの容体、少し悪化した」
エマは簡潔に告げる。感情を混ぜない報告だが、その言葉の重さは十分すぎるほど伝わってきた。
「分かった」
俺は短く答え、頷いた。それ以上の言葉はいらない。今は、前に進むだけだ。
分娩室の前で、俺は足を止めた。ドアの向こうから、かすかな音が聞こえる。エレナの声だ。必死に、命を生み出そうとする声。
「ハヤトにぃに……」
微かに聞こえたその呼び方に、胸が締めつけられる。俺は扉の前で、拳を握りしめた。
――守る。
それだけを、心の中で繰り返す。
長い時間が過ぎた。実際にはどれくらいだったのか、分からない。ただ、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
「……生まれました」
医師の声が響く。
「女児です。ただし――」
その先を、俺は最後まで聞かなくても分かっていた。
「六百三十九グラム。未熟児です」
数字は冷静だ。だが、その裏にある現実は、あまりにも重い。
「命は……?」
「今は、生きています。ただ、非常に厳しい。一週間……それが、今お伝えできる現実です」
一週間の命。
その言葉が、頭の中で反響する。だが、不思議と膝が崩れることはなかった。俺は、立っていた。
「……ヒカリ、だな」
「はい?」
「この子の名前は、ヒカリです」
宣言するように言った。医師は一瞬だけ目を伏せ、頷いた。
保育器の中で、ヒカリは小さな体を必死に動かしていた。手のひらに収まってしまいそうな命。それでも、確かに生きている。
「よく来たな」
俺は、声を抑えて言った。
「ここまで、よく頑張った」
エレナは、分娩後のベッドで眠っていた。顔色は良くない。それでも、呼吸は安定している。俺はそっと近づき、手を取った。
「エレナ」
呼びかけると、ゆっくりと目を開けた。
「……ハヤトにぃに?」
「ああ」
「ヒカリは……?」
その一言に、彼女のすべてが詰まっている。
「生まれた。小さいけど、生きてる」
エレナは、ほっと息を吐き、弱々しく笑った。
「よかった……」
それ以上、言葉は続かなかった。ただ、その目に浮かぶ安堵と不安が、混ざり合っているのが分かる。
その日のうちに、俺は休校届けを出した。理由欄には、簡潔に書いた。
――家庭の事情のため、一週間。
それで十分だった。今、俺がいるべき場所は一つしかない。
「本気だね、ハヤト」
テオが言った。手には、差し入れの紙袋を持っている。
「当たり前だ」
「だよね。じゃあさ、その一週間、俺たちも付き合う」
エマが腕を組んで頷く。
「授業のノートは任せて。父親業に専念しなさい」
「助かる」
それだけ言えば、十分だった。
一週間は、あっという間で、同時に永遠だった。
朝、病院に来て、ヒカリの様子を確認する。保育器越しに声をかけ、指を差し出す。反応はわずかだ。それでも、確かに応えてくれる。
「おはよう、ヒカリ」
毎日、同じ言葉を言った。
「俺は、ここにいる」
エレナは、ベッドの上で母親としての時間を過ごしていた。小さな体で、懸命に笑おうとする。
「ヒカリ、ちっちゃいね」
「ああ」
「でも、あったかい」
ガラス越しに見る我が子に、エレナは優しい目を向ける。その横顔は、確かに母親だった。
「私ね、怖い」
ある夜、ぽつりと言った。
「でも、ヒカリが生きてるから……それだけで、頑張れる」
俺は、彼女の肩を抱いた。
「一人じゃない」
「うん……」
テオとエマは、時々顔を出してくれた。
「ほら、糖分補給」
「父親は倒れたら意味ないでしょ」
そんな何気ない支えが、俺を現実に繋ぎとめてくれた。
七日目の夜。病室は静かだった。機械の音だけが、一定のリズムで鳴っている。
俺は保育器の前に立ち、じっとヒカリを見つめた。
「短いかもしれない」
心の中で言う。
「それでも、俺は父だ。お前の父だ」
ヒカリの小さな胸が、かすかに上下する。
「この一週間、全部、俺の人生だ」
エレナが、後ろから俺の服を掴んだ。
「ハヤトにぃに……」
俺は振り返り、彼女を抱き寄せた。
「一緒にいる」
「うん……一緒」
命は、無事に誕生した。しかし、喜ぶには早かった。それでも、この一週間は、確かに“家族”だった。
俺は、その事実を胸に刻み、ヒカリのそばに立ち続ける。父として。逃げずに。




