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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第115話 父と母になる9ヶ月

 九ヶ月という時間を、俺はこれまで何度も口にしてきた。だが実際にその中へ足を踏み入れてみると、その重みは想像以上だった。朝が来て、夜が来る。その繰り返しの中で、終わりが遠く霞んで見える日もある。それでも、立ち止まる理由はなかった。


 実習棟の廊下を歩きながら、俺は手のひらを握りしめる。今日も訓練だ。周産期管理、緊急対応、想定外への備え。知識だけでなく、判断の速さと正確さを求められる。ヒカリを守るために受けると決めた九ヶ月の訓練は、俺の生活のすべてを塗り替えていた。


 疲れがないと言えば嘘になる。だが、弱音を吐くほどの余裕はない。前に進む。それだけだ。


「ハヤトー!」


 背後から、やけに明るい声が飛んできた。振り返ると、テオが両手を振りながら走ってくる。少し遅れて、エマが腕を組んだままついてきた。


「朝から険しい顔してるね」


「いつも通りだ」


「それが険しいって言ってるの!」


 テオは笑いながら俺の肩を軽く叩く。その軽さが、妙にありがたい。


「九ヶ月だっけ? いやー、長いよね。俺だったら途中で心折れる自信ある」


「自慢にならない」


 エマが即座に突っ込む。


「でも、ハヤトが続けてるのは事実」


「当たり前だ」


「はいはい、その強がりも含めてハヤト」


 エマは小さく息を吐き、俺の目を見る。


「終わりが見えない訓練ほど、心に来るものはない。でもね、進んでるのは確か」


 その言葉は、理屈じゃなく、実感として胸に残った。


「そうそう!」


 テオが勢いよく頷く。


「昨日できなかったこと、今日はできてたじゃん。本人が気づいてないだけでさ」


 俺は一瞬言葉に詰まった。確かに、昨日よりも今日のほうが、判断に迷いは少なかった。だが、それを評価する余裕がなかった。


「……そうか」


「そうだよ!」


 テオは胸を張る。


「だからさ、たまには俺たちを頼れ。応援係くらいなら、いくらでもやるから」


 エマも静かに頷いた。


「一人で背負う必要はない。ヒカリを守るのは、あなただけの戦いじゃない」


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。俺は短く息を吐いた。


「ありがとう」


 それだけで十分だった。


 その日の午後、実習室での訓練は特に厳しかった。想定症例が次々に提示され、判断の遅れは即座に指摘される。集中力を切らさないことが求められる。額に汗が滲み、白衣の背中が重くなる。


 それでも、俺は手を止めなかった。ヒカリの名前が、常に頭のどこかにある。それが、俺を前へ押し出す。


 夕方、訓練を終えて外に出ると、空は柔らかな色に染まっていた。俺は無意識のうちに、検査棟のほうへ足を向ける。


 エレナが、検査を受けながら母になる訓練をしている場所だ。


「ハヤトにぃに!」


 声をかける前に、向こうから気づいてくれた。エレナは小走りで近づき、俺の前でぴたりと止まる。


「今日もお疲れさま!」


「ああ。エレナもな」


「えへへ。私も、ちゃんと頑張ってるよ」


 胸を張るその仕草が、いかにもエレナらしい。だが、その明るさの裏に、不安があることを俺は知っている。


「検査はどうだった」


「うん。ちょっとドキドキしたけど、大丈夫って言われた」


「そうか」


 それだけで、肩の力が抜けた。


「ねえねえ、聞いて。今日はね、赤ちゃんのこといっぱい教えてもらったの」


「どんな」


「えっとね……ごはんとか、体のこととか。難しかったけど、ヒカリのためだもん!」


 無邪気な声だが、その中には確かな覚悟がある。母になるための訓練を、エレナなりに受け止めている。


「怖くないか」


 俺がそう聞くと、エレナは一瞬だけ視線を逸らした。


「……ちょっとだけ」


 正直な答えだった。


「でもね、ハヤトにぃにが頑張ってるって思うと、私も頑張れる」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


「無理はするな」


「うん。でも、逃げないよ」


 エレナはにこっと笑う。その笑顔が、強さそのものだった。


 俺はそっと手を伸ばし、彼女の肩に触れた。抱きしめたい衝動を抑え、代わりに、そばにいるという意思を伝える。


「一緒だ」


「うん。一緒」


 短い言葉で、十分だった。


 その後も日々は続く。訓練は厳しく、終わりはまだ遠い。それでも、テオの何気ない冗談や、エマの的確な言葉が、俺を支えてくれた。


「今日は甘いもの補給の日な!」


「訓練後に食べるから意味があるのよ」


 そんなやり取りに、思わず口元が緩むことも増えた。


 夜、一人で机に向かう時間もある。資料を読み返し、手順を確認する。その静かな時間の中で、俺は自分が前に進んでいることを、少しずつ実感し始めていた。


 ヒカリを守るための九ヶ月。エレナが母になるための時間。俺たちはそれぞれ違う場所で、同じ未来を目指している。


 ある夜、エレナがぽつりと言った。


「ねえ、ハヤトにぃに。ヒカリに会える日、楽しみだね」


「ああ」


 即答だった。


「その日まで、俺は学び続ける」


「私も、ちゃんとお母さんになるよ」


 その言葉に、俺は頷いた。


 長く感じる九ヶ月は、確かに険しい。だが、その一日一日が、命へとつながっている。俺は歩みを止めない。仲間がいて、愛する人がいて、守るべき命がある。


 それだけで、十分だった。

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