第114話 父親になる覚悟と、君を愛する覚悟
夕暮れが中庭を包み込み、石畳の上に長い影を落としていた。風は冷たく、制服の裾をかすかに揺らす。その感触が、今日という一日の終わりを告げている。俺はベンチに腰を下ろし、手元のノートを閉じた。文字は並んでいるが、頭には入ってこない。集中できない理由は、はっきりしていた。
視線の先、並木の向こうでエレナが立ち止まっている。こちらに気づいているのに、近づいてこない。いつもなら、軽い足取りで駆け寄ってくるはずだ。俺は立ち上がり、名前を呼んだ。
「エレナ」
彼女の肩が小さく跳ね、ゆっくりとこちらへ歩き出す。その歩幅は控えめで、迷いがにじんでいる。
「ハヤトにぃに……」
声は明るく作っているが、薄い膜を一枚挟んだみたいに遠い。俺は彼女の前に立ち、視線を合わせた。夕焼けに照らされた横顔は、まだ幼さを残している。それが、彼女自身を苦しめているのだと、直感で分かった。
「歩こう」
「うん」
並んで歩き出す。石畳を踏む音が二人分、規則正しく続く。沈黙が長い。俺は急かさない。エレナが言葉を選んでいるのが分かるからだ。
「ハヤトにぃにってさ」
「ん?」
「……大人だよね」
その言葉は、褒め言葉の形をしていたが、どこか自分を遠ざける響きを持っていた。俺は足を止める。
「年相応だ」
「そうじゃなくて」
エレナは唇を噛み、視線を落とす。
「ちゃんとしてて、強くて……私と、全然違う」
胸の奥に、静かな痛みが走る。彼女は自分を下に置こうとしている。それが、歳の差という言葉に形を変えて。
「エレナ」
彼女も立ち止まった。
「最近ね、変なこと考えちゃうの」
「変じゃない」
「まだ言ってないのに」
「顔に出てる」
エレナは一瞬むっとしてから、力なく笑った。
「……歳の差のこと」
やっぱり、そこだ。
「私、子供だよね。ハヤトにぃには、父になる人なのに」
その言葉は、刃物みたいに自分を傷つける。エレナはそれを分かっていて、あえて口にした。
「周りの人、きっと思うよ。なんで一緒にいるのって」
俺はすぐに答えなかった。言葉を探したわけじゃない。どうすれば、彼女の恐怖を受け止められるかを考えていた。
「エレナ、こっち来い」
「え……?」
戸惑いの声を残したまま、俺は一歩踏み出し、彼女を抱き寄せた。強くはない。だが、確かに離れない腕の位置だ。エレナの体が一瞬硬直し、それから小さく息を吸う。
「ハヤトにぃに……?」
「今は、これが必要だ」
理由はそれだけで十分だった。彼女の額が、俺の胸に触れる。心拍が伝わる。生きている証だ。
「歳の差があるのは事実だ」
俺は落ち着いた声で言う。
「それを無視する気はない」
エレナの指が、俺の服を掴んだ。
「……じゃあ」
「でもな」
俺は言葉を切る。
「それが、俺たちの全部じゃない」
腕に、わずかに力を込める。
「年齢で人を選んだわけじゃない。今のエレナを、俺は選んだ」
胸の中で、小さく息を呑む気配がした。
「私、怖かった」
「何が」
「いつか、ハヤトにぃにが、私のこと置いていくんじゃないかって」
その不安は、理解できる。俺は父になる。責任は増える。だからこそ、はっきりさせる必要があった。
「置いていかない」
即答だった。
「守るものが増えた。だから、離さない」
エレナの肩が震え、抑えていた感情が溢れ始める。涙が一滴、俺の胸に落ちた。
「私……ちゃんと大人にならなきゃって」
「急ぐな」
「でも……」
「エレナの速度でいい」
俺は彼女の背に手を回し、包み込む。
「俺は、待てる」
その言葉に、覚悟を込める。医学の訓練で身につけた忍耐とは違う。人を待つ覚悟だ。
「それに」
「うん……?」
「俺は父になる。でも、それは、エレナの居場所を奪うことじゃない」
エレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ハヤトにぃに、ずるい」
「何が」
「そんなふうに言われたら、信じちゃう」
「信じろ」
短く、断言する。
「俺は、嘘をつかない」
エレナは俺の胸に額を押し当て、深く息を吸った。呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かる。
「ねえ、ハヤトにぃに」
「ん」
「今は、まだ、甘えていい?」
「もちろんだ」
迷いなく答える。
「それは、俺の役目でもある」
「ふふ……」
小さな笑い声が、胸に振動する。ようやく、いつものエレナだ。
遠くで鐘が鳴り、夕方の終わりを告げる。俺は名残惜しさを抑え、ゆっくりと腕を離した。エレナは目元を拭い、少し照れたように笑う。
「ハヤトにぃに、ありがとう」
「礼を言われることはしてない」
「したよ。ちゃんと、抱きしめてくれた」
「必要だった」
「……うん」
再び歩き出す。今度は、エレナの歩幅が少し大きい。俺の隣に、しっかり並んでいる。
歳の差は消えない。立場も責任も違う。だが、それを理由に引くつもりはない。俺は父になる男で、エレナを愛する男だ。その二つは、同時に抱えられる。
エレナが俺の袖を軽く引いた。
「ねえ」
「何だ」
「ずっと一緒だよね」
俺は立ち止まり、彼女を見る。
「ああ」
即答だった。
「一緒だ」
夕暮れの中庭に、確かな静けさが残る。歳の差を超えた愛は、派手じゃない。だが、確かにここにある。俺はその重みを受け止め、前に進む。守るために、愛するために。




