第113話 父になる俺は、命のために学ぶ
夜明け前の実習棟は、昼とは別の静けさをまとっている。白い廊下に響くのは、俺の足音だけだ。その規則正しい反響が、今の俺の呼吸と心拍を整えてくれる。焦りはない。ただ、時間が足りない。それだけだ。
資料室の扉を開け、灯りを点ける。積み上げられた専門書と論文の山は、昨日からほとんど動いていない。俺はその前に腰を下ろし、一番上に置いた周産期医学の症例集を開いた。
ヒカリの心拍が、やや不安定――
医師から告げられたその言葉は、もう何度も反芻した。感情としては受け止めきっている。だからこそ、今は考えるべきだ。何ができるのか。何を学べば、守れる確率を上げられるのか。
ページをめくる指に、迷いはない。胎児循環、母体血流、胎盤機能。どれも机上の知識では終わらせられない。俺は学生だが、同時に父になる人間だ。立場が変われば、学びの意味も変わる。
ペンを取り、重要な箇所に線を引く。評価指標、リスク管理、緊急時の判断基準。文字を追うたび、頭の中で仮定が組み上がっていく。もしこうなったら、次は何をする。選択肢は何通りある。どこで決断する。
怖さがないわけじゃない。だが、怖さに飲まれて止まるほど、俺は未熟じゃない。
扉が、控えめな音を立てて開いた。
「……やっぱり、ここにいた」
振り返ると、エレナが立っていた。薄いショールを肩にかけ、まだ眠気の残る顔でこちらを見ている。笑顔はいつも通りだが、目の奥が少しだけ揺れているのが分かる。
「起こしたか?」
「ううん。目が覚めたら、ハヤトにぃにがいなくて。なんとなく、ここかなって」
俺は椅子を引き、彼女が座れるようにした。エレナは軽い動きで腰を下ろし、机の上の資料を覗き込む。
「いっぱいあるねぇ。難しそう」
「簡単だったら、困る」
「ふふ。ハヤトにぃに、顔が真剣すぎ」
からかうような口調。でも、その声は少しだけ震えている。俺は、彼女の指先が机の縁を強く掴んでいるのを見逃さなかった。
「エレナ」
「なぁに?」
「無理してないか」
一瞬だけ、間が空いた。エレナは笑顔のまま、視線を逸らす。
「してないよ。だって、元気だもん」
その答えが、どれだけ彼女なりの精一杯か、俺には分かる。怖いと言えば、俺が無理をすると思っているのだろう。泣けば、俺が自分を責めると知っている。
だから俺は、言い方を変えた。
「怖いなら、怖いって思っていい」
エレナの肩が、わずかに揺れた。
「……夜ね、目が覚めると、いろいろ考えちゃうの」
声は小さい。子供みたいに、頼りない。
「ヒカリ、ちゃんと生まれてくるかな、とか。私、ちゃんとお母さんになれるかな、とか」
俺は、そっと彼女の手を取った。細くて温かい。生きている温度だ。
「エレナは、もう十分に頑張ってる」
「でも……」
「足りない部分は、俺が補う」
言葉は短いが、迷いはない。
「俺は医者を目指してる。でも、それだけじゃない。父になる。ヒカリの父だ」
エレナは俺の顔を見上げ、少しだけ目を丸くした。
「……父、なんだ」
「そうだ」
当たり前の事実を、今、はっきり口にする。胸の奥が、静かに重くなる。それは責任であり、同時に支えだった。
「だから、俺は学ぶ。全部だ。今より先も」
エレナの目に、涙が溜まる。でも、零れない。
「ハヤトにぃに……」
「大丈夫だ」
俺は繰り返す。自分に言い聞かせるように。
「俺がいる」
エレナは一度だけ大きくうなずき、急に明るい声を出した。
「じゃあ、私は寝る! 赤ちゃんのために!」
「それが一番の仕事だ」
彼女は立ち上がり、くるっと振り返る。
「無理しすぎたら、怒るからね?」
「善処する」
「それ、無理する人の言い方ー!」
軽い調子で手を振り、エレナは去っていった。扉が閉まった後、資料室は再び静寂に包まれる。
俺は深く息を吐き、背筋を伸ばした。
守るものがある。しかも一つじゃない。だからこそ、迷っている暇はない。
午前のカンファレンスでは、胎児循環に関する最新のレビューが議題に上がった。俺は発言の機会を逃さず、準備してきた内容を簡潔にまとめて提示する。
「非侵襲での血流評価ですが、この方法なら母体への負担を抑えられます」
視線が集まる。だが、緊張はない。事実と理論を積み重ねてきた自負がある。
カンファレンス後、テオとエマが近づいてきた。
「ハヤト、今日キレッキレだな」
「テオ、声」
「はいはい」
エマが腕を組み、俺を見る。
「相当、調べてきたね」
「必要だからな」
「……そっか」
エマは一瞬だけ視線を落とし、すぐにいつもの調子に戻った。
「教授に追加トレーニング、打診してみる?」
「もう準備はしてある」
テオが目を丸くする。
「早っ!」
「遅いくらいだ」
教授室での面談は、短くも濃いものだった。俺は資料を提示し、リスク管理と目的を明確に伝える。感情論は挟まない。ただ、覚悟だけは隠さない。
「……君の立場は理解した」
教授はそう言い、少し考えてから頷いた。
「条件付きで許可しよう。要求水準は高いぞ」
「構いません」
扉を出た瞬間、背中に溜まっていた緊張がほどけた。テオが小さく拳を握る。
「やったな」
「ああ」
その日の夕方、俺は実習室で機器の前に立った。手順を確認し、想定ケースを一つずつ潰していく。集中していると、時間の感覚が薄れる。
夜。病室の前で足を止める。ガラス越しに、眠るエレナの姿が見える。穏やかな表情だ。
「ヒカリ」
心の中で呼ぶ。
「俺は、止まらない」
父になる俺は、命のために学ぶ。その覚悟は、もう揺がない。
俺は静かに踵を返し、再び明るい廊下へ向かった。命のために、未来のために。俺は前へ進み続ける。




