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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第112話 飛ばされたお守りと一緒に、俺の理性も飛びました。

 フェスティバルが終わったばかりの学園広場には、まだ人の熱が残っていた。

 競技を終えた生徒たちの高揚した声、片付けに追われる実行委員の足音、遠くで笑い合う友人たちの気配。それらが混ざり合い、いつもの学園より少しだけ、世界が明るく感じられる時間だった。


 俺は仮設ステージの前に立ち、簡易マイクを向けられていた。


「徒競走で転倒されましたが、最後まで走り切った姿が印象的でした。今のお気持ちは?」


 問いかけに、俺は一度だけ視線を伏せる。

 転んだ瞬間の衝撃や痛みよりも、思い出すのは、あの時に見た光景だ。


 泣きそうな顔で俺を見つめていたエレナ。

 必死に声を張り上げ、俺を呼んでいた小さな姿。

 そして、ヒカリが確かに生きていると分かった瞬間の、胸を満たした安堵。


「……立ち上がる理由があった。それだけです」


 短い言葉だったが、周囲から自然と拍手が起こった。

 視界の端で、テオが屋台の袋を抱えたまま感動したように頷いている。


「いやー、ハヤト、今日の主役だな!」


「食べながら言わないで」


 エマの即座のツッコミに、思わず口元が緩む。


 その時、ふと人混みの向こうに視線を感じた。

 探すまでもなく、すぐに見つかる。


 エレナだった。


 人の流れの中で、少し背伸びをするようにして、俺を見ている。

 両手で大事そうに包み込んでいるのは、小さな布製のお守り。


 安産祈願のお守りだ。


 ヒカリの存在が分かってから、エレナはそれを肌身離さず持っていた。

 明るく笑っている時も、何気ない会話の途中でも、指先が無意識に触れている。


 それが、彼女の不安を和らげる唯一の支えだと、俺は知っている。


 ――だからこそ。


 突然、強い風が広場を吹き抜けた。


 飾り付けの布が揺れ、紙の旗がばたつく。

 その音に紛れて、エレナの小さな声が聞こえた。


「あ……!」


 嫌な予感がした。

 視線を向けた瞬間、エレナの手から、お守りが離れているのが見えた。


 白い紐を引きながら、風に煽られて宙を舞う。

 まるで、彼女の不安そのものが、空へ放り出されたみたいだった。


「お守りが……!」


 誰かの声が上がる。


 次の瞬間、俺はマイクを置き、走り出していた。

 考えはなかった。ただ身体が動いた。


 あれは、単なる縁起物じゃない。

 エレナが、誰にも見せずに抱えてきた恐怖と願いが詰まっている。


 失わせるわけにはいかなかった。


 人の間を抜け、地面を蹴り、必死に手を伸ばす。

 指先が空を切り、次の瞬間、布の感触が伝わった。


 ――掴んだ。


 着地と同時に、周囲から歓声が上がる。

 だが、そんなことはどうでもよかった。


 俺の視線は、ただ一人に向いている。


 エレナは、胸の前で手を重ね、今にも泣き出しそうな顔で立っていた。

 その表情を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。


 俺は一直線に、彼女の元へ向かう。


「ハヤトにぃに……」


 声が震えている。

 差し出したお守りを受け取ろうとした、その手を、俺はそっと掴んだ。


 ざわめきが、ふっと遠ざかる。

 全校生徒の視線が集まっているのは分かっていた。


 それでも、止まれなかった。


「……怖かったよな」


 そう言うと、エレナの目が一気に潤む。


「うん……だって……もし、もしもって……」


 言葉にできない不安が、声の隙間から零れ落ちる。

 俺はお守りを彼女の手に戻し、その手ごと包み込んだ。


「大丈夫だ」


 それだけ言って、エレナを引き寄せる。

 強く抱きしめるのではなく、壊れ物を扱うように、そっと。


 彼女の額に、自分の額を重ねる。

 呼吸が近い。小さく震えているのが伝わる。


 そして――

 迷いなく、唇を重ねた。


 一瞬だけ。

 確かめるような、静かなキスだった。


 世界が、静まり返ったように感じた。


 すぐに、周囲からどよめきが起こる。


「ちょっと! ここ公共の場!」


 エマの声。

「うおー……フェスの最後にこれは反則だろ……!」


 テオの感嘆。


 それでも、俺は後悔しなかった。


 唇を離すと、エレナの目から、ぽろりと涙が落ちた。


「……ハヤトにぃに、ずるいよ」


「何がだ」


「こんなの……安心しちゃうに決まってるじゃん……」


 俺は、彼女の涙を指で拭う。


「安心していい」


 短く、はっきりと言う。


「俺がいる。ヒカリも、エレナも、全部」


 エレナはお守りを胸に抱き、何度も頷いた。


「……うん。信じる」


 その言葉が、何より嬉しかった。


 フェスティバルは終わった。

 賑やかだった一日は、ゆっくりと幕を閉じていく。


 飛ばされたお守りと一緒に、俺の理性は確かに飛んだ。

 でも、それでよかった。


 守ると決めた想いは、もう誰にも隠さない。

 俺は、この手で、未来を選ぶ。

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