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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第111話 走れ!命の声へ!

 地面に叩きつけられた瞬間、視界が白く弾けた。

 砂と土が混じった校庭の匂いが、一気に鼻腔へ流れ込む。肩、膝、肘――順番もなく衝撃が走り、身体のどこが一番痛いのか、即座には判断できなかった。


 転んだ。

 徒競走で、完全に。


 その事実を理解したのは、耳に届いたざわめきが、歓声から悲鳴へ変わったときだった。空気が一段冷え、時間が引き延ばされたように感じる。ゴールテープが、倒れた俺の視界の先で揺れていた。まだ遠い。いや、近いはずなのに、致命的に遠い。


 ――終わったか。


 そんな言葉が、喉の奥まで上がってきた。

 だが、そこで止まらなかった。


 俺は医療の道を歩いてきた。倒れた人間が、次に何を確認するべきかは、嫌というほど身体に染みついている。意識レベル、四肢の感覚、関節の可動域。呼吸はできている。視界も問題ない。痛みはあるが、致命的じゃない。


 動ける。


 そう判断した瞬間、逆に身体が重く感じられた。

 立てる。立てるはずだ。それなのに、ほんの一瞬、躊躇が生まれる。


 このまま終わってもいいんじゃないか。

 そう思ってしまった自分が、確かにいた。


 勝ち負けじゃない。フェスティバルだ。転倒は事故だ。誰も責めない。医務班もすぐ来る。合理的な理由はいくらでもある。


 だが――。


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 それは、膝の痛みとは違う。もっと深く、もっと鈍い痛み。


 夢の中で、何度も見てきた光景が、ふと重なった。

 手を伸ばしても届かない。呼びかけても応えない。失って、失って、それでも目覚めるたびに、何も守れなかったという感覚だけが残る。


 俺は、また倒れたままでいいのか。


 その問いに答えを出せずにいた、そのときだった。


「ハヤトにぃに――!」


 スタンドから、真っ直ぐに届く声。


 エレナの声だと分かった瞬間、胸が強く締めつけられた。

 叫び声じゃない。悲鳴でもない。必死で、それでも折れていない声。


「ヒカリは生きてるよ!

 パパに会いたいって言ってるよ!

 だから、がんばれ!」


 世界が、静止した。


 ヒカリ。

 その名前が、頭ではなく、身体の中心に落ちてきた。


 生きている。

 断言するようなその言葉に、根拠があるかどうかなんて、どうでもよかった。エレナは、恐怖の中にいる。流産の可能性を突きつけられ、それでも笑顔を崩さず、誰にも言わずに泣いてきた。そのエレナが、今、俺に向かって言っている。


 生きてる、と。


 信じたいからじゃない。

 信じているから、出た声だ。


 俺は、拳を強く握り締めた。

 砂が指の間に入り込み、皮膚が擦れる感覚が、やけに生々しい。


 ――立つ。


 それだけを決めた。


 腕に力を込め、上体を起こす。膝が一瞬、悲鳴を上げたが、構わない。地面を踏みしめる感覚が、確かに戻ってくる。視界が上がり、世界が再び「走る高さ」になる。


「……ヒカリ!」


 叫びは、意図したものじゃなかった。

 だが、叫ばずにはいられなかった。


 俺は、再び走り出した。


 脚が重い。明らかに、さっきまでとは違う。転倒の影響は確実に残っている。それでも、身体は前に出る。前に出ろと、命令している。


 残り距離は、わずかだ。


 前方に、マルクスの背中が見える。

 その姿に、怒りも憎しみも湧かなかった。ただ、越えるべき壁として、視界にあるだけだ。


 俺は、腕を振る。

 一歩一歩が、やけに長く感じる。太腿が軋み、膝に熱が溜まる。それでも、止まらない。


 観覧席から、声が重なる。

 その中で、エレナの声だけが、はっきりと聞こえた。


「ハヤトにぃに! あとちょっと!」


 その言葉が、背中を強く押した。

 応援じゃない。命令でもない。信頼だ。


 ――会いに行く。


 それだけが、俺を動かしていた。


 ゴールテープが、急激に近づく。

 マルクスが一瞬、足をもつらせたのが視界の端に映った。理由はどうでもいい。俺は、最後の一歩に、すべてを乗せる。


 胸に、テープが当たった。


 その感触と同時に、爆発するような歓声が耳を打つ。

 遅れて、審判の笛が鳴った。


 一着。


 俺は、ゴールの向こうで膝に手をついた。息が荒く、視界がわずかに滲む。それでも、倒れなかった。倒れる理由が、もうなかった。


 足音が駆け寄ってくる。


「ハヤト!」

「無茶しすぎよ!」


 テオとエマの声。

 エマは即座に膝と肩の状態を確認し、テオは落ち着かない様子で周囲を気にしている。


「意識は?」

「はっきりしてる」

「……なら、あとでちゃんと診るから」


 そのやり取りを聞きながら、俺はスタンドを見上げた。


 エレナがいた。


 両手で口元を押さえ、目を潤ませながら、それでも確かに笑っている。泣いているのか、笑っているのか、判別がつかない顔。


 俺は、親指を立てた。


「……やった」


 小さくそう言うと、エレナは何度も頷いた。


「うん!

 ヒカリもね、すごいって言ってる!」


 胸の奥が、熱く満たされていく。


 確証はない。未来は不確かだ。医療は、いつだって残酷だ。

 それでも――。


 倒れても、立ち上がる。

 罠にかけられても、前に進む。

 祈るだけじゃなく、掴みに行く。


 それが、俺のやり方だ。


 俺は、前を向いた。

 ヒカリに会うために。

 エレナと、共に立つために。


 この身体が動く限り、俺は走り続ける。


 ――倒れないでくれ、じゃない。

 倒れても、立ち上がれ。


 その覚悟を胸に、俺は確かに、今日を越えた。

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