第110話 100mの罠
光の絆フェスティバル二日目。校庭の空気は張り詰め、白線の上に立つ足裏から、その緊張が伝わってくる。種目は百メートル徒競走。医療学校の体育祭にしては単純だが、単純だからこそ、余計なものが混じる余地もない。……そう思っていた。
隣のレーンに立つのは、マルクス・ヴェルナー。整えられた髪、余裕のある微笑。学園を金と権力で牛耳る影の王。俺を真っ向から睨むでもなく、まるで興味がないかのように前だけを見ている。その態度が、逆に警戒心を煽った。
「ハヤト、気をつけて」
スタンドからエマの声が飛ぶ。
「相手はマルクスよ。何もないはずがない」
「了解」
少し離れた観覧席で、エレナが身を乗り出している。
「ハヤトにぃに! がんばって! ころばないでね!」
その声に、俺は軽く手を挙げた。約束はしない。ただ、全力で走るだけだ。
スタート位置にしゃがむ。指先が白線に触れる。地面は乾いている。風向きも悪くない。視界の端で、マルクスがわずかに靴底を擦った。その動きが、やけに気になった。
号砲。
一斉に蹴り出す。身体が前に投げ出され、世界が一直線になる。俺は加速しながら、足裏の感触に集中した。違和感はない。二十メートル、三十メートル。呼吸は安定している。
四十メートル付近で、視界の隅に不自然な影が走った。白線の内側、ほんのわずかな盛り上がり。砂の色が違う。踏み込む直前で、足の軌道を数センチ外へずらす。踏まない。避けた。
――やっぱりな。
五十メートル。今度は、風に舞う小さな粉塵。目に入れば終わりだが、顔をわずかに伏せてやり過ごす。マルクスは平然と走っている。罠の位置を知っている者の走りだ。
六十、七十。太腿に張りが出る。だが、まだいける。俺は速度を落とさない。八十メートル手前、今度は白線の外側に細い紐。ほとんど地面と同化している。躓かせるためのものだろう。俺は内側へ半歩寄せ、跨ぐ。
観覧席がどよめいた。
「今の、見た?」
「罠じゃない?」
残り二十メートル。ゴールテープが視界に入る。マルクスが、わずかに前に出た。その背中を捉えながら、俺は最後の伸びに入る。
――来るなら、ここだ。
足を前に出した瞬間、踵に鈍い引っかかりを感じた。地面からではない。上から、絡みつく感触。瞬時に理解する。上空から落とされた、極細のワイヤー。避けきれない位置だ。
バランスが崩れる。身体が前に流れる。立て直そうとするが、次の一歩が出ない。
「ハヤトにぃに――!」
エレナの声が、やけに近く聞こえた。
俺は歯を食いしばり、受け身を取ろうと腕を出す。だが、速度が勝った。視界が反転し、空と地面が入れ替わる。
衝撃。
肩と膝に、重い痛みが走った。砂が舞い、呼吸が一瞬止まる。ゴールテープが、倒れた俺の頭上を揺れている。
歓声が悲鳴に変わる。駆け寄る足音。だが、俺はすぐに身体を起こした。痛みはある。だが、意識ははっきりしている。
視線の先で、マルクスがゴールを抜け、ゆっくりと振り返った。唇の端が、ほんのわずかに歪む。
――転んだ。それだけだ。
俺は膝に手をつき、立ち上がろうとする。倒れたままでは終わらない。罠にかかっても、ここで止まる気はない。
スタンドから、震える声が届いた。
「ハヤトにぃに……だいじょうぶ……?」
俺は顔を上げ、エレナを見る。泣きそうな目。それでも、俺は頷いた。
「平気だ」
そう言って、もう一度、前を向いた。




