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第11話 秘めた光、届かぬ言葉

午後の講義が終わる頃、ルミエールアカデミー附属病院とつながる診療棟の廊下は、夕陽で淡く橙色に染まっていた。


今日の講義は「小児患者の慢性疾患と医療者の心理的距離」。

教授の言葉がまだ耳から離れない。


“医療者は患者を守る存在であっても、患者に依存してはいけない”

“強い感情は判断を狂わせることがある”


まるで、昨日の俺を見透かしたような授業だった。


エレナの容体が急変しかけた際、俺は冷静さを失った。

看護師に促され、気道評価やバイタルの確認を手伝ったものの、胸の奥は焦りで焼け付いていた。


心配しすぎだ、と言われればその通りなのかもしれない。

だが、それだけでは説明できない感情が胸を圧迫する。


「ハヤト、メシ行こーぜ!」


廊下の向こうからテオが手を振る。

隣でエマがタブレット端末を抱え、こちらを気遣うように微笑んだ。


――ごめん。今日も無理だ。エレナの経過を見に行かないと。


胸の中でそう呟き、病院棟へ足を速める。

外来エリアの自動扉が開いた瞬間、消毒液の匂いと床ワックスの化学臭が混ざり合った空気が流れ込んできた。


午前中に採血された検体がラベルされたまま、ワゴンに整然と並んでいる。

研修医らしき先輩がカルテを片手に走り去っていく。


病棟のナースステーションに近づくと、看護師が報告書を読み上げていた。


「301号室、エレナ・インゼル。

 バイタル14時時点、BP 98/62、SpO₂ 96%、脈拍 92。

 鎮痛薬は予定通り投与済み、疼痛スケール2。

 食事は3割、吐気なし」


その報告に、胸が少し緩む。

昨日より確実に良い。


病室へ向かう途中、壁に貼られた心電図の読み方ポスターが目に入る。

ST上昇、洞性頻脈、不整脈――

講義で習ったばかりの知識が頭をよぎり、無意識にエレナの容体へ当てはめ始めていた。


深呼吸して、自分を落ち着かせる。


――俺はまだ医学生。一つひとつを確かめながらしか進めない。


病室の前で立ち止まり、ノブに触れる手が汗ばんだ。

胸の奥で、医療者の冷静さと彼女への特別な感情がぶつかり合う。


ゆっくり扉を開けた。


柔らかな照明の下で、エレナは静かに眠っていた。

点滴スタンドに吊られたバッグには、電解質輸液――ソリタT3。

滴下速度は規定通り、1分あたり60滴。

腕に刺さったカテーテルはきれいに固定され、発赤もない。


ベッド脇のモニターには

心拍数 88、SpO₂ 96%、呼吸数 18、体温 37.1

安定した数値が並んでいた。


その数字を見ただけで、胸が温かくなる。


俺は椅子に座り、彼女の髪にそっと触れた。

細い髪が指に絡み、ふと昔の記憶が蘇る。


孤児院で、熱を出した俺を小さな手で撫でてくれたエレナ。

その手は、今は点滴で少し冷たくなっている。


(守りたい――その気持ちは、家族としてのものなのか。それとも)


答えは出ないまま、胸の奥だけが重くなる。


モニターの心電図が一定のリズムで波を刻む。

ピッ、ピッ、と規則的なアラーム。

その音が、俺の心臓と同じ速度に思えてくる。


エレナが、まぶたを震わせた。


「……ハヤトにぃに?」


弱く掠れた声。

喉の乾きだろうか。加湿酸素ではないから、起きたら少し喉が痛むかもしれない。


俺は軽く笑い、肩を押さえる。


「起きなくていい。薬が効いてるんだ。動くと点滴抜けるぞ」


そんな言葉を口にしながら、胸の内側は激しくざわめいていた。

看護記録の「疼痛スケール2」という数字に安堵しつつ、

彼女の息遣いの弱さが心に刺さる。


「……エレナ」


この部屋は静かで、夕陽がレースカーテンを通して暖色の影を落としている。

病棟のアラームも聞こえない。

看護師の巡回も、しばらくは来ないだろう。


エレナの細い指が、俺の袖を掴んだ。

体温は36度台のはずなのに、触れた部分だけが妙に熱い。


幼い頃と同じ仕草に胸が締めつけられ、何かが零れ落ちた。


「……好きだ」


医療者なら言ってはいけない言葉。

だが、医学生という立場と、彼女への想いの狭間で、声が震えて止まらなかった。


エレナは一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間、いつもの無邪気な笑顔になった。


「うん! エレナも、ハヤトにぃに大好き!」


血の気が引くような痛みが胸を走る。

彼女が言う“好き”が、家族としてのものだと分かっているからこそ苦しい。


俺はそっと抱きしめた。

カテーテルに負担をかけないように、慎重に腕を回す。

胸元に彼女の弱い呼吸が触れ、点滴のラインが小さく揺れた。


(家族としての愛情。それだけなら簡単だったのに)


「今日はもう休め。明日、また来るから」


エレナは安心したように笑い、まぶたを閉じた。

モニターの心拍が、安定したリズムで流れている。


病室を出ると、廊下の冷たい空気が頰を冷やした。

さっきまでの体温が嘘のように引いていく。


ドアを閉める前、俺は小さく呟いた。


「……愛してる」


扉越しに届かなくていい。

だが、胸の内側に溜め込むには重すぎる言葉だった。


ナースステーションから、看護師の声が聞こえる。


「301号、バイタル次は20時ね。輸液はこのままキープ」


その何気ない声が、現実に引き戻す。


獅子寮へ戻る道、夕暮れの空気が肺に冷たく染み込んだ。

医学生として、医療者として、そして一人の人間として。

どこまでが許され、どこからが踏み越えてはいけないのか。


答えはまだ出ない。


ただ一つ、明日も病室へ行くということだけが確かだった。



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