第109話 父親になる覚悟
朝の校庭は、冬の名残を含んだ光で満ちていた。澄んだ空気の中、吐く息がわずかに白む。全校生徒が集まる「光の絆フェスティバル」。体育祭と銘打たれ、いつもは白衣に包まれているはずの学生たちが、色とりどりの運動着に身を包んでいる。その光景を前にして、俺は観覧席の端で立ち止まり、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。胸の奥に溜まったものを、外へ追い出すように。
昨夜も、同じ夢を見た。エレナと、まだ生まれてもいない小さな命を失う夢だ。手を伸ばしても届かず、呼び止めても振り返らない。何度も、何度も繰り返される。目が覚めた瞬間、現実に戻れた安堵より先に、胸の奥がひりつくように痛んだ。その感覚は、今も消えていない。
弱音を吐くのは、これが初めてかもしれない。誰かに頼るより、行動で示す方が性に合っている。そうやってここまで来た。それでも、今日は前に出ると決めた。逃げない。向き合う。自分に言い聞かせるようにして、俺はグラウンドへ足を踏み出した。
「ハヤトにぃに! あっ、見て見て、旗がいっぱいだよ!」
弾むような声に振り向くと、エレナが小走りでこちらへ来る。風に揺れる旗を指さしながら、目を輝かせていた。十六歳の無邪気さそのままに、全身で楽しさを表している。その姿に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
無理はさせない。医務テントの近く、日陰のベンチ。何かあってもすぐ対応できる場所だ。そこに座らせるのが、今日の俺の役目でもある。
「寒くないか」
「だいじょーぶ。あたし、ちゃんと上着着てるもん」
そう言って、胸を張って笑う。その笑顔の裏で、夜ごとひとりで泣いていることを、俺は知っている。怖くて、不安で、誰にも言えずに涙を流していることを。知らないふりは、もうしない。俺が目を逸らしたら、誰が支える。
開会式が終わり、生徒たちがざわめきながら移動を始めた頃、テオが妙に張り切った顔で近づいてきた。いつも以上に表情が明るいのが、逆に不安を誘う。
「ハヤト、聞いてくれ。競技、俺が提案したの、通った」
「嫌な予感しかしない」
「安心しろ。安全第一。医学的にね」
その言葉に、横でエマが腕を組み、深いため息をついた。
「“安心”の定義を説明してから言って」
「えーと……ちゃんと医務班配置、負荷管理、心拍数モニタ……」
「余計不安だわ」
やり取りを聞きながら、俺は肩をすくめる。だが、テオの目は真剣だった。冗談だけで動く男じゃない。
競技名がアナウンスされる。
「特別競技、『命のバトン・リレー』」
一瞬、校庭が静まり、次いでざわめきが広がった。聞き慣れない名前に、戸惑いと興味が入り混じった声が飛び交う。
内容の説明を聞き、俺は息を整えた。三人一組。空の担架、命のケース、新生児相当の重さ。速さより丁寧さ。医療学校らしい競技だ。命を扱う手つきが、そのまま点数になる。
「斜め上すぎる……」
「だろ? でもさ」
テオはそう言って、エレナの方を見る。
「観客席の“声援役”がいる。バトンは声でも渡る。家族の声、って設定だ」
エレナがきょとんと首をかしげる。
「あたし、なにするの?」
「簡単。ハヤトにぃにに、声かける係」
エマが即座に付け加える。
「座ったまま。走らない。声だけ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。逃げたい気持ちが顔を出す。声援という形で、家族を意識させる競技。その真意は、痛いほど分かる。逃げるか、向き合うか。俺は短く息を吸い、頷いた。
「やる」
スタートの笛が鳴る。第一走者の俺は、担架を押し出した。軽い。だが、その軽さに油断しない。実際の現場では、軽いと思った瞬間に事故が起きる。速度を抑え、段差で一度止まり、周囲を確認する。次の走者へ、確実に渡す。
第二走者が命のケースを抱える。箱は想像以上に重い。腕にじわりと負荷がかかる。走るな。歩け。呼吸を整えろ。自分に言い聞かせる。心拍音のポイントで立ち止まり、耳を当てる。規則正しい音。作り物だと分かっていても、胸の奥が熱くなった。
「ハヤトにぃに! あせらなくていいよ!」
澄んだ声が飛ぶ。エレナだ。その声に、背中を押される。俺は顔を上げ、短く手を挙げた。
第三走者に箱が渡り、ゴール前。チェックリストが読み上げられる。
「固定よし。保温よし。声かけ、よし」
一拍置いて、最後の項目。
「“家族の確認”」
俺は一歩前に出た。
「俺が父親だ」
口にした瞬間、背中が自然と伸びた。夢の中で何度も失った言葉を、現実で掴み取る。震えはない。覚悟だけが、そこにあった。
「ハヤトにぃに……」
エレナの声が震える。泣いているのかもしれない。俺は視線を逸らさず、静かに頷いた。
ゴール。歓声が上がる。だが、胸の奥は不思議なほど静かだった。騒がしさの中で、一本の芯が立つのを感じる。
競技後、ベンチに戻る。エレナは両手を胸に当て、ゆっくり呼吸していた。
「ごめん、ちょっと、どきどきした」
「無理させたなら、俺が悪い」
「ちがうよ。うれしかった。ハヤトにぃにが……ちゃんと、言ったから」
俺は腰を下ろし、彼女の手を包む。温かい。確かな、現実の温度だ。
「怖いのは、俺も同じだ。でも、守る。夜も、朝も」
少し離れた場所で、テオが親指を立て、エマが呆れたように拍手していた。
「斜め上、成功?」
「うん、まあね」
「二度はやらないから」
夕方、校庭に影が伸びる。フェスティバルはまだ続くが、俺の中では一つの区切りがついた。夢はこれからも見るだろう。それでも、起きている時間に俺は選べる。抱え方を、歩き方を、声のかけ方を。
「ハヤトにぃに、また来年もある?」
「あるさ」
「じゃあ、また応援するね」
「頼もしいな」
光の中で、俺は前を向いた。倒れないでくれ、と祈るだけの俺はもういない。支え、確かめ、進む。その手順を、今日、身体で覚えた。




