第108話 ほっといて欲しいのに、影の王がほっといてくれません
また、同じ夢だった。
白い天井。
冷たい光。
消毒薬の匂いが、肺の奥まで染み込んでくる。
小さな手を、俺は必死に探している。
確かに、そこにいるはずなのに。
「ヒカリ……」
声に出したはずの名前は、音にならず、喉の奥で砕けた。
指先が、何かに触れた――そう思った瞬間、その感触は消える。
「ハヤトにぃに……」
エレナの声が聞こえた。
振り向いた瞬間、彼女の姿は遠ざかり、輪郭が滲んでいく。
追いかけようと足を踏み出した、その瞬間。
床が、抜けた。
落下する感覚。
心臓が、ひっくり返る。
――失う。
その予感だけを残して、俺は現実に引き戻された。
荒い息を吐きながら、天井を睨む。
朝だ。
胸の奥が、焼けるように痛い。
悪夢は、もう何日も続いている。
ヒカリとエレナを失う光景を、脳が勝手に再生し続ける。
医療を学んでいるからこそ、想像は具体的で、容赦がない。
「……それでも」
俺は、ベッドから立ち上がった。
制服に袖を通す。
鏡に映る顔色は、確かに悪い。だが、まだ立てる。
倒れていない。
それだけで、今はいい。
エレナの病室の前で、足が止まった。
面会謝絶の札が、静かに俺を拒んでいる。
分かっている。
今は、そっとしておくべきだ。
それでも、胸の奥が軋む。
――俺が、守る。
そう決めた。
だから、崩れない。
「……俺は倒れない」
小さく呟き、踵を返す。
廊下に出ると、足取りがわずかに重くなった。
視界の端が、ほんの一瞬揺れる。
大丈夫だ。
そう思った、その瞬間だった。
「おやおや」
背後から、粘つくような声。
聞き慣れすぎた不快感。
この学園で、これほど意図的に人を不快にさせられる人間は一人しかいない。
マルクス・ヴェルナー。
蛇寮の制服を完璧に着こなし、廊下の中央に立つ姿は、まるで舞台に上がった役者だ。
周囲の学生たちが、無意識に距離を取る。
「噂以上だな、キサラギ」
俺の顔を、値踏みするように眺める。
「目の下の隈、呼吸の浅さ、歩幅の乱れ……五年生の首席がこれとは。実に見応えがある」
俺は答えない。
視線も合わせない。
今は、関わりたくない。
だが、マルクスはそれを許さない。
「聞いたぞ」
一歩、距離を詰めてくる。
「面会謝絶だそうじゃないか。可哀想に」
声が、わざとらしく甘くなる。
「子どもが――流れるかもしれない、だったか?」
胸の奥が、凍りついた。
「それで、君は何をしている?」
「こうして、学園をふらふら歩いているだけか?」
俺は歩き出そうとした。
だが、その進路に、マルクスはぴたりと立ちはだかる。
「逃げるな」
低い声。
次の瞬間。
肩に、明確な力が加えられた。
「……っ!」
避ける暇はない。
体が大きく傾き、足が床を捉え損ねる。
膝が床に打ちつけられ、鈍い音が響いた。
――倒れた。
初めて、はっきりと。
「おっと」
マルクスは、わざとらしく一歩下がる。
「いやはや。自分から倒れ込んだように見えるが?」
周囲がざわつく。
「これが父親になる男か」
「命を守る覚悟もないくせに、命を名乗るな」
歯を食いしばる。
立ち上がろうとした、その時。
……ころり。
床に落ちる、小さな音。
安産祈願のお守り。
エレナが、両手で差し出してくれたもの。
「ハヤトにぃに、これ持ってて!」
「ヒカリね、きっと元気だよ!」
あの笑顔が、胸を刺す。
伸ばした俺の手よりも早く、マルクスの靴先が動いた。
拾い上げる。
「……ほう」
じっくりと眺め、指で弄ぶ。
「安産祈願、ね。随分と信心深い」
にやりと、歪んだ笑み。
「だが、祈れば助かる命ばかりじゃない。君が一番、分かっているはずだろう?」
「返せ」
声は低く、短く。
マルクスは聞こえないふりをする。
「これが、流れた後の記念品になるかもしれないと思うと……実に趣深い」
――ぷつり。
何かが、切れかけた。
「……いい加減にしろ!!」
怒声が、廊下を震わせた。
テオだ。
その隣に、エマ。
「わざとだろ今の!」
「弱ってる人間に追い討ちかけて、何が楽しいんだよ!」
テオの声は怒りで震えている。
エマが、鋭く言い放つ。
「あなた、医学生失格よ」
「命を弄ぶのがそんなに楽しい?」
マルクスは、二人を見下ろし、嗤った。
「楽しんでいるに決まっているだろう」
あまりにも、即答だった。
「人が壊れていく様を見るのは、最高だ。特に、優等生がな」
俺は、支えなしで立ち上がる。
足は不安定だが、目は逸らさない。
「……マルクス」
声を出した瞬間、空気が張り詰める。
「それは、俺の家族のものだ」
マルクスは、しばらく俺を見つめ――。
「家族?」
嘲笑。
「まだ生まれてもいない存在を、よくもそこまで信じられる」
そして、ぽい、と。
お守りを投げ返した。
「覚えておけ、キサラギ」
冷たい声。
「今日、君は倒れた」
「次は、心だ」
背を向け、去っていく。
俺は、お守りを両手で受け止め、強く握りしめた。
布越しに伝わる、確かな存在。
「ハヤト……」
テオが、肩を支える。
「今は無理するな」
エマの声が、静かに寄り添う。
俺は、深く息を吐いた。
「……ありがとう」
そして、お守りに誓う。
ヒカリ。
エレナ。
パパは――
どれだけ踏みつけられても、絶対に倒れない。




