第107話 倒れないと決めた結果、面会謝絶だった件
倒れなかった。
それは、紛れもない事実だ。
講義を終え、獅子寮の会議室で減点の原因を洗い出し、修正案をまとめ、寮生たちに指示を出した。声は掠れていたが、言葉は揃っていた。判断も、遅れてはいない。
首席として、やるべきことはやった。
会議が終わり、最後の寮生が部屋を出た瞬間、身体の奥に溜め込んでいた緊張が、一気にほどけた。
椅子の背に手をかけ、呼吸を整える。
胸の内側が重い。心臓の鼓動が、少し不規則だ。だが、意識ははっきりしている。歩ける。立てる。
――なら、問題ない。
そう判断して、俺は立ち上がった。
廊下に出ると、足裏の感覚が少し遅れて返ってくる。床を踏みしめているはずなのに、地面が遠い。
それでも、進む方向は決まっていた。
病棟。
エレナのいる場所。
階段を上がるたびに、息が浅くなる。胸の奥が締め付けられるように痛み、視界の端がわずかに滲んだ。
だが、立ち止まらない。
俺は、倒れないと決めた。
病室の前に着いたとき、看護師が静かに首を横に振った。
「……面会は謝絶されています」
一瞬、言葉の意味が頭に落ちてこなかった。
「本人の希望です。今は、誰にも会いたくないと」
喉の奥が、きゅっと縮む。
「……分かりました」
それ以上、何も言えなかった。
無理に理由を聞く必要はない。エレナがそう決めた理由は、分かっている。
ヒカリのことだ。
医師から聞かされた説明が、脳裏に浮かぶ。
流産の可能性。安静の必要性。精神的負担を避けること。
その一つひとつを、エレナは一人で受け止めたのだろう。
ハヤトにぃに、と無邪気に笑っていたあの声で、全部を胸に抱え込んで。
俺は廊下の壁に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の重さが、さらに沈む。
倒れなかった代償が、これか。
夕方、エマとテオが合流した。
二人の顔を見ただけで、何も言わなくても状況は伝わったらしい。
「……ダメだった?」
エマの問いに、俺は短く頷く。
「面会謝絶だ」
エマは目を伏せ、唇を噛んだ。
「エレナ……」
テオは珍しく軽口を叩かなかった。紙袋も持っていない。
「ヒカリのこと、だよね」
「ああ」
声に出すと、胸の奥がきしんだ。
テオは少し考え込むように天井を見上げてから、ぽつりと言った。
「今は……無理に会わなくていいと思う」
エマが驚いたように振り向く。
「テオ?」
「だってさ、ハヤト。今、絶対無理してるでしょ」
言い返せなかった。
「それ、エレナが見たら、もっと追い込まれると思うんだ」
エマはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
「……確かに」
俺は拳を握る。
「それでも、守る」
エマが静かに言った。
「倒れないって選択は、間違ってない。でもね、無傷でいられる選択じゃない」
その言葉が、胸に深く落ちた。
夜。
寮の自室に戻っても、眠気は訪れなかった。
目を閉じれば、悪夢の輪郭がすぐそこまで迫ってくるのが分かる。心拍が速くなる前に、目を開けた。
机の上に、小さな紙切れが置いてある。
エレナが以前、置いていったメモだ。
『ハヤトにぃに、ヒカリね、きっと元気だよ!』
丸い文字。無邪気な言葉。
その裏に隠された不安を、俺はどれだけ見落としていたのか。
窓を開けると、冷たい夜気が肺に流れ込んだ。
少しだけ、呼吸が楽になる。
倒れなかった。
だが、無理をした。
その結果、エレナは扉の向こう側に閉じこもり、俺は外に立たされた。
それでも、立ち止まらない。
明日も講義はある。獅子寮を立て直す。マルクスに付け入る隙は与えない。
そして、エレナが扉を開けるその時まで――俺はここにいる。
ヒカリ。
まだ名前だけの、小さな命。
胸に手を当て、静かに誓う。
「……守る」
倒れないと決めた結果は、すべて引き受ける。
それが、俺の選択だ。




