第106話 倒れない首席は狙われる
目を覚ました瞬間、肺がうまく空気を取り込めていないのが分かった。
息を吸おうとすると、胸の奥がひりつく。浅く、短い呼吸を何度も繰り返し、ようやく身体を起こした。
……また、だ。
汗で濡れたシャツが肌に張りついている。悪夢の内容は思い出せない。ただ、目を閉じるたびに心拍だけが早まる。耳鳴りが残り、こめかみの内側が脈打つように痛んでいた。
立ち上がろうとした瞬間、視界が一度、白く弾けた。
壁に手をつき、数秒待つ。床が傾く感覚が収まるまで、動かない。
行ける。
そう判断してから、ようやく一歩を踏み出した。
獅子寮の廊下を歩く間、足先の感覚が鈍い。床を踏んでいるはずなのに、少し遅れて衝撃が伝わってくる。
呼吸は整えたつもりだったが、階段を下りるだけで胸が重くなった。
「キサラギ、顔色が――」
「問題ありません」
寮生の言葉を遮るように答える。
声は出ている。立っている。だから大丈夫だ。
講義棟に着く頃には、額の奥に鈍い痛みが居座っていた。脳の内側を内圧で押されているような、不快な感覚。
講義室の前列に座り、ノートを開く。
教授の声が始まる。
いつもなら自然に理解できる内容なのに、今日は言葉が滑り落ちていく。聞き逃しているわけじゃない。ただ、意味が繋がらない。
ペンを走らせると、指先が冷えているのに気づいた。
文字がわずかに歪む。手首に力が入らず、線が薄くなる。
集中しろ。
そう命じた直後、心臓が一拍、強く跳ねた。
――どくん。
一瞬、息が止まる。
胸の奥を掴まれたような感覚に、思わず肩が強張った。
大丈夫だ。
自分に言い聞かせ、姿勢を正す。だが、視界の端がかすかに暗くなる。
講義が終わる頃には、内容の半分も頭に残っていなかった。
休憩時間、立ち上がろうとした瞬間、膝が軋んだ。
重心が前に流れ、机に手をつく。
「……ハヤト」
エマの声が、いつもより近い。
「今、立ちくらみしたでしょ」
「一瞬だ」
「一瞬でも正常じゃない」
エマの視線は鋭い。
誤魔化しきれないのを悟り、俺はそれ以上言わなかった。
そこへ、テオが紙袋を揺らしながら現れる。
「おはよー! 焼き菓子! 匂いで元気出るタイプのやつ!」
「今はそれどころじゃ――」
エマの言葉を遮るように、講義室の扉が開いた。
「ほう……随分と静かな首席だな」
空気が冷える。
マルクス•ヴェルナーが、愉快そうにこちらを見下ろしていた。
「講義中、ずいぶん苦しそうだったじゃないか。顔色も、手の震えも」
俺は立ち上がった。
その動作だけで、内臓が一段下に落ちたような感覚が走る。
「関係ない」
「あるさ」
マルクスは一歩近づく。
「最近の獅子寮、評価が落ちている。実技の判断遅れ、提出のズレ……原因は分かりやすい」
視線が、俺の胸元に突き刺さる。
「指揮官が不調では、部下も迷う」
心拍が、また一拍、乱れた。
呼吸が浅くなる。喉の奥が乾く。
だが、俺は視線を逸らさない。
「結果は出す」
「その身体で?」
マルクスの口角が歪む。
「悪夢続きで眠れず、集中力も落ち、循環も不安定……首席も、ただの人間だな」
エマが一歩前に出た。
「勝手に診断しないで」
「事実だろう?」
テオが首を傾げる。
「え? でもさ、体調悪いときに煽る方が効率悪くない? ほら、余計に長引くじゃん」
「黙れ」
マルクスの苛立ちが、はっきりと見えた。
俺は一歩、前に出る。
胸の重さを無視する。
「減点は俺の責任だ。だから――取り戻す」
「ほう」
「獅子寮は崩れない」
短い沈黙のあと、マルクスは鼻で笑った。
「なら、せいぜい倒れないようにな。次は見逃さない」
去っていく背中を見送り、俺は息を吐いた。
その瞬間、足先の力が抜けそうになる。
「……ハヤト」
エマが支えるように腕を掴む。
「無理するな、とは言わない。でも、限界は把握しなさい」
「分かってる」
テオが紙袋を差し出した。
「はい、焼き菓子。今すぐ治るわけじゃないけど、ゼロよりはマシ」
俺は受け取り、静かに頷いた。
悪夢は続く。
動悸も、立ちくらみも、消えてはいない。
それでも――倒れない。
結果を出す。それだけが、今の俺の選択だ。




