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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
五年生編:守ると決めた日々

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第105話 守ると決めた夜、悪夢だけが容赦しない

 夜になるたび、俺は同じ場所に立たされる。


 白く、冷たい廊下。足元に反射する灯りは現実よりもくっきりしていて、どこか嘘くさい。消毒薬の匂いが鼻の奥に残り、胸の奥がざわつく。この感覚を、俺はもう何度も知っている。


 夢だ。


 そう理解した瞬間、背中を嫌な汗が伝った。


 前方に、小さな背中が見える。軽やかに跳ねるような歩き方。見間違えるはずがない。


「エレナ!」


 声を張り上げる。だが、距離は縮まらない。走っているはずなのに、床が伸びていくみたいに、近づけない。


 エレナは振り返って、笑った。


「だいじょーぶだよ、ハヤトにぃに」


 その笑顔に、胸が一瞬だけ緩む。俺は手を伸ばす。今度こそ届く、そう思った。


 次の瞬間、床が崩れ落ちた。


 身体が浮き、視界が反転する。内臓が置いていかれる感覚に、喉から声が漏れた。必死に何かを掴もうとして、空を切る。


「エレナ!」


 名前を叫ぶ。何度呼んでも、答えは返ってこない。


 衝撃もなく、場面は切り替わる。


 病室だった。


 白い天井。無機質な灯り。規則正しい電子音が、耳に刺さる。ベッドの上には、横たわるエレナがいた。顔色が悪く、呼吸は浅い。


 俺は駆け寄る。声をかけようとして、言葉が詰まる。医者としての知識が、嫌というほど現実を突きつけてくる。状況を、状態を、勝手に整理してしまう。


 違う。


 今は、医者じゃない。


「エレナ、俺はここにいる」


 そう言ったはずなのに、声が遠い。エレナの視線は、俺ではなく、横を見ていた。


 嫌な予感が、背中を這い上がる。


 ゆっくりと視線を向けると、もう一つ、小さなベッドがあった。


 包まれた、小さな命。


 顔ははっきりしない。それでも分かる。分かってしまう。


 俺と、エレナの娘だ。


 ヒカリ。


 名前を思い浮かべただけで、胸が締め付けられる。モニターの音が、わずかに乱れた。


 医師の声が聞こえる。何かを告げている。だが、言葉の意味が頭に入ってこない。理解する前に、結果だけが迫ってくる。


 高く、一本の音。


「待て!」


 叫んだ。身体が動く。ベッドに手を伸ばす。エレナの手を、ヒカリを、同時に掴もうとして――


 触れた感触は、なかった。


 すべてが、白に溶けていく。


「エレナ! ヒカリ!」


 自分の声で、俺は飛び起きた。


 喉が痛い。息が荒く、胸が上下する。心臓が、壊れそうな勢いで打っている。額から流れ落ちた汗が、シーツを濡らした。


 天井が、見慣れた木目に戻る。寮の部屋だ。カーテンの隙間から、夜明け前の薄い光が差し込んでいる。


 夢だ。


 そう言い聞かせても、身体が納得しない。耳の奥で、血の流れる音がうるさい。指先が、冷たい。


 また、同じ夢だ。


 ここ最近、毎晩だ。少しずつ形を変えながら、結末だけは変わらない。俺は、間に合わない。守れない。名前を呼ぶことしかできない。


 ベッドの端に腰掛け、床を見つめる。拳を握ると、震えているのが分かる。力を込めても、止まらない。


 今まで、どんな状況でも踏ん張ってきた。実習で患者の容体が急変した夜も、判断を誤れば取り返しのつかない場面でも、逃げなかった。怖くなかったわけじゃない。ただ、立ち止まらなかっただけだ。


 なのに。


 この夢だけは、どうにもならない。


 医者としての知識が、想像を具体的にする。可能性、確率、最悪のケース。頭の中で、勝手に並べてくる。


 守ると決めたはずなのに。


 俺は顔を覆った。指の隙間から、荒い息が漏れる。


「……怖い」


 声に出した瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。


 俺が、こんな言葉を口にするなんて。今まで、一度もなかった。弱音を吐くくらいなら、動けと思ってきた。背負うと決めた以上、前に出るしかない。


 それでも、夜になると、こうして独りで追い詰められる。


「失うのが……怖い」


 誰に聞かせるわけでもない。空気に落とすように呟く。それだけで、胸が少しだけ軽くなるのが悔しい。


 エレナは、今も不安と戦っている。ヒカリの存在を守るために、笑顔の裏で、どれだけ怖さを抱えているか、俺は知っている。だからこそ、エレナの前では、絶対に揺らがないと決めている。


 俺が崩れたら、支えにならない。


 それだけは、分かっている。


 深く息を吸い、ゆっくり吐く。何度も繰り返す。心拍が、少しずつ落ち着いていく。


 棚の上に置いた写真立てに、視線を向けた。エレナが、無邪気に笑っている写真だ。その笑顔が、現実にあることを確かめるように、目を離さない。


 夢は、夢だ。


 現実は、まだ、ここにある。


 俺は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。夜気が、頬に触れる。冷たくて、確かな感触だ。


「……守る」


 小さく、だがはっきりと呟く。


 怖さが消えるわけじゃない。それでも、進むことはできる。弱音を吐いたからといって、立ち止まるわけじゃない。


 空は、わずかに白み始めていた。


 俺は、朝を迎える準備をする。守ると決めた夜を越えて、また前に進むために。

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