第104話 日常は、静かに崩れ始める。待ってくれない5年生
朝の鐘が鳴るより早く、俺は目を覚ました。
5年生になってから、この生活リズムが完全に体に染みついた。起きる、準備する、動く。それだけだ。迷っている暇はない。
ルミエールアカデミー医療専門学校大学部、5年生。
学生でありながら、現場に立つ時間が一気に増える学年だ。責任も、判断も、待ってはくれない。
寮の廊下を歩きながら、今日の予定を頭の中で整理する。
午前は実習、午後は講義、その後は当直補助。隙間はない。
「……変わらないな」
そう思った瞬間、違和感が胸の奥をかすめた。
変わらない、はずがない。
医療棟に入ると、いつもの匂いが鼻をつく。消毒液、薬品、少しだけ金属の匂い。
それなのに、足取りがわずかに重い。
「ハヤト」
声をかけてきたのはエマだった。
白衣の袖を整えながら、こちらを見る。
「おはよう」
「おはよう。準備は?」
「終わってる。テオは――」
「いるぞ!」
間の抜けた声と同時に、テオが廊下の角から現れた。
相変わらず少し慌てた様子だが、表情は明るい。
「今日の実習、気合入ってるな!」
「お前はいつも空回ってる」
「ひどい!」
軽口が飛び交う。
それだけで、少し空気が緩んだ。
だが、俺の頭の片隅では、別のことが静かに進行していた。
エレナ。
朝から、まだ顔を見ていない。
昨日は「大丈夫だよ!」と笑っていたが、その声が少しだけ軽かった。
実習が始まると、時間は容赦なく流れる。
患者対応、記録、確認。判断を求められる場面が増え、5年生としての立ち位置を突きつけられる。
「キサラギ、どう見る」
「この数値なら、今は経過観察。だが油断はできない」
即答する。
迷いを見せる場面じゃない。
周囲の視線が集まる。
学年首席。その肩書きは、便利で、重い。
昼休み、ようやく一息ついたところで、ポケットの端末が震えた。
『ハヤトにぃに、今どこ?』
短い文面。
すぐに返信する。
『医療棟。どうした』
数秒の沈黙のあと、返事が来た。
『会いたい』
理由は書いていない。
だが、それで十分だった。
俺は席を立った。
「どこ行くの?」
エマが気づいて声をかける。
「少し」
「……エレナ?」
「ああ」
「無理しないで」
その一言に、頷いた。
中庭に出ると、エレナはベンチに座っていた。
足を揺らしながら、俺を見つけると手を振る。
「ハヤトにぃに!」
「どうした」
隣に座る。
エレナは少し間を置いてから、口を開いた。
「ねえ。5年生って、すごく忙しいんだね」
「今さらだな」
「うん。でもね……」
言葉が止まる。
その沈黙が、いつもより長い。
「エレナ?」
「ハヤトにぃに、どんどん先に行っちゃうみたい」
責める口調じゃない。
ただ、事実を確かめるような声だった。
「俺は、止まらない」
「……うん」
それでも、少し寂しそうに笑う。
「でもね、エレナもがんばってるよ」
「知ってる」
「ほんと?」
「ああ」
短く答える。
言葉を重ねるより、ここにいることの方が大事だ。
チャイムが鳴る。
次の時間が、俺を呼び戻す。
「戻る」
「うん。行ってらっしゃい」
立ち上がると、エレナは小さく手を振った。
その背中が、いつもより小さく見えた。
午後の講義は、容赦なかった。
課題、報告、実地想定。5年生のカリキュラムは、学生に甘えを許さない。
気づけば外は夕暮れだ。
「今日も一日終わったな」
テオが伸びをする。
「終わってないわよ。これから当直補助」
「ええ……」
軽い会話の裏で、俺の意識は別のところにあった。
崩れ始めている。
大きな音はしない。だが、確実に。
日常は、ゆっくり形を変えていく。
5年生という時間は、誰も待ってくれない。
俺は歩き出す。
立ち止まらず、振り返らず。
守るべきものが増えたからこそ、前に進むしかない。
この日常が、どこまで続くかは分からない。
それでも、俺は今日も現場に立つ。
崩れ始めた日常の中で、選び続けるために。




