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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第103話 命は宿った、だが安心するには早すぎた

 嫌な予感というものは、理由もなく胸の奥に沈む。

 音もなく、形もなく、だが確実にそこに居座る。


 その朝、俺は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 カーテン越しの光はいつもと変わらないのに、呼吸だけが妙に浅い。


 エレナの顔が、脈絡もなく浮かぶ。

 昨日の大騒ぎのあと、無理に笑っていたあの表情だ。


「……行くか」


 考え込む前に、体を動かした。

 こういう時、立ち止まるとろくなことにならない。


 医療棟に着くと、空気が張り詰めていた。

 消毒薬の匂い、足音、低く抑えた会話。いつもの風景なのに、今日は違って見える。


 受付前で、エレナは椅子に座っていた。

 膝の上で手を組み、足をぶらぶらさせているが、落ち着きはない。


「ハヤトにぃに!」


 俺を見つけると、ぱっと顔を上げる。


「待たせたな」


「ううん! 全然!」


 元気な声。

 だが、視線が一瞬揺れたのを俺は見逃さなかった。


「正式な検査だな」


「うん。ちゃんとするって、約束だもん」


 俺は受付に声をかけ、事情を説明した。

 エレナは未成年だ。保護者代わりとして同席するのは自然な流れだった。


 案内された診察室は、静かだった。

 白いカーテンの向こうで、エレナは検査を受ける。


 俺は椅子に座り、背筋を伸ばした。

 落ち着いているつもりでも、指先が冷たい。


 数十分後、看護師が戻ってきた。

 落ち着いた年配の女性で、声も表情も穏やかだ。


「結果が出ました」


 その一言で、胸の奥がきゅっと締まる。


「……はい」


「妊娠は、事実です」


 言葉は淡々としていた。

 だが、はっきりと耳に残る。


「……そうですか」


 俺は即座に立ち上がらなかった。

 エレナの方を見る。


 エレナは、一瞬きょとんとしてから、ゆっくり瞬きをした。


「……え?」


「妊娠、している状態です」


「……ほんと?」


「はい」


 エレナは俺を見た。

 不安と戸惑いが混ざった目だ。


 俺は頷いた。


「聞いた通りだ」


「……そっか」


 小さく呟き、エレナは自分のお腹を見下ろした。


 看護師は言葉を続ける。


「ただし、現時点では注意が必要です」


 嫌な予感が、はっきり形を持った。


「流産の可能性が、あります」


 空気が、止まった。


 エレナの肩が、びくりと揺れる。


「……え」


「まだ初期段階で、不安定な状態です。安静が必要になります」


 看護師の声は冷静だった。

 それが、かえって現実を突きつける。


「痛いこと、あるの?」


 エレナの声は、驚くほど小さかった。


「今はありませんが、無理は禁物です」


 俺は一歩前に出た。


「具体的な注意点を」


「激しい運動は禁止。精神的なストレスも避けてください。何か異変があれば、すぐ連絡を」


「分かりました」


 短く、確実に返す。

 こういう時、曖昧な返事はしない。


 看護師が退出すると、診察室は静まり返った。


 エレナは、じっと床を見つめている。


「エレナ」


「……ハヤトにぃに」


「ここにいる」


 それだけでいい。

 俺は椅子を引き寄せ、正面に座った。


「エレナ、怖いか」


「……ちょっと」


 正直な答えだ。


「でもね」


 顔を上げ、俺を見る。


「赤ちゃん、いるんだよね」


「ああ」


「いなくなっちゃうかもしれないって……言われた」


 唇を噛みしめている。


「可能性の話だ」


「……うん」


 涙はまだ出ていない。

 だが、今にも溢れそうだ。


「俺が守る」


 即座に言った。


「前にも言ったが、今回は本当の話だ」


「……ほんとに?」


「ああ」


 逃げ場のない状況で、言葉を濁す気はなかった。


「エレナ一人にはしない。必要なことは全部やる」


「ハヤトにぃに……」


 エレナの目から、ようやく涙が落ちた。


「こわいよ……」


「分かってる」


 肩に手を置く。

 抱き寄せることはしない。ここは病院だ。


「怖いままでいい。だが、勝手に一人で抱え込むな」


「……うん」


 診察室を出ると、廊下の音が戻ってきた。

 日常は続いている。だが、俺たちの足元だけが違う場所に立っている。


 待合で、エマとテオが立ち上がった。


「どうだった?」


 エマの表情は真剣だ。


「妊娠は事実だ」


「……そう」


 エマは息を吸い、吐いた。


「流産の可能性がある」


 テオが息を呑む。


「え……」


「安静が必要だ」


 エマはすぐに切り替えた。


「分かった。学内の手続き、私が動く」


「助かる」


 エレナは、二人を見上げた。


「ねえ、エマ、テオ」


「なに?」


「エレナ、ちゃんとするから」


 テオはぎこちなく笑った。


「うん……ちゃんとしよ」


 帰り道、エレナは俺の隣を歩いていた。

 いつもより歩幅が小さい。


「ハヤトにぃに」


「なんだ」


「赤ちゃん、守れるかな」


 足を止め、俺は前に立った。


「守る」


「……うん」


 その返事は、さっきより少しだけ強かった。


 胸の奥の嫌な予感は、まだ消えない。

 だが、だからこそ、俺は目を逸らさない。


 倒れない。

 取り乱さない。

 逃げない。


 守るべきものが、ここにある。


 嫌な予感を抱えたままでも、俺は前に進む。

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