第102話 俺の子供だって言われても
嫌な予感というものは、たいてい当たる。
その朝、医療棟に入った瞬間から、背中の奥がじわりとざわついていた。
「ハヤトにぃに!」
廊下に響いた声で、確信に変わる。
振り向く前から分かっていた。走ってくる足音の主も、その表情も。
「ちょっと来て! すぐ! 今すぐ!」
エレナは俺の腕を掴み、半ば引きずるようにして物品庫脇の小さな処置室へ連れ込んだ。
扉が閉まると同時に、周囲の喧騒が遮断される。
「……どうした」
短く問う。
エレナは息を整えることもせず、胸の前で小さな箱を掲げた。
「ねえ、ハヤトにぃに。これね」
妊娠検査キット。
見間違えようがない。
「……説明しろ」
「エレナね、もしかしたら……ハヤトにぃにの子供、できたかも」
一瞬、音が消えた気がした。
頭が真っ白になる、という表現をこれまで信じてこなかったが、なるほど、こういうことか。
「……は?」
声が掠れた自覚はある。
だが、それ以上に、目の前の少女があまりにも真剣だった。
「だって! 線、二本出たんだよ!」
差し出されたキットには、確かに反応が出ている。
「エレナ」
名前を呼んだだけで、喉が妙に乾く。
「まず、座れ」
「うん!」
言われた通り椅子に座りながらも、エレナの目は期待と不安が混ざった色で俺を見上げている。
「……いつ使った」
「昨日の夜!」
「どこで」
「寮のトイレ!」
「説明書は」
「見てない!」
即答だった。
頭を抱えたい衝動を、必死で抑える。
「どうして俺の子供だと思った」
「だって、ハヤトにぃにしか思い浮かばなかったんだもん!」
理由になっていない。
だが、エレナにとっては十分すぎる理由なのだろう。
「エレナ。いいか、落ち着いて聞け」
俺は膝をつき、視線を合わせた。
「俺とお前の間に、そういう事実はない」
「でも!」
「ない」
語気は強めたが、感情的にはならない。
ここで取り乱したら、余計に混乱させる。
「妊娠検査キットは、正しい使い方と時間を守らないと誤反応が出る」
「え……」
「線が出た=妊娠、じゃない」
エレナの眉が、きゅっと下がった。
「じゃあ……エレナ、ハヤトにぃにの赤ちゃんじゃないの?」
「現時点では、その可能性は極めて低い」
「ほんと?」
「ああ」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「ハヤト! 今、すごい話――」
テオだった。後ろにはエマ。
「……何この空気」
「テオ、黙れ」
エマが即座に制する。
エレナは二人を見つけるなり、また声を張り上げた。
「ねえねえ! エレナね、ハヤトにぃにの赤ちゃんできたかもって!」
「はぁぁぁ!?」
エマの声が裏返る。
「ちょ、ちょっと待って!? どういうこと!?」
テオは完全に思考停止していた。
「誤解だ」
俺は即座に言い切った。
「検査キットの誤反応の可能性が高い」
「……誤反応?」
エマが鋭く確認する。
「使用方法不明、判定時間超過」
「あー……」
エマは納得したように額を押さえた。
「エレナ。勝手に物品庫から持ち出したわね?」
「うん!」
「威張るな!」
テオが横で小声で呟く。
「ハヤト、心臓大丈夫……?」
「まだ動いてる」
「よかった……」
検査キットを俺は受け取り、反応窓を改めて確認する。
「時間、完全に過ぎてる」
「えええ!?」
エレナが立ち上がった。
「じゃあ、エレナの勘違い!?」
「そういうことだ」
「よかったぁ……!」
そのまま、エレナは俺の白衣にしがみついてきた。
「びっくりしたよぉ……ハヤトにぃに」
「次からは、勝手に判断するな」
「はーい……」
素直な返事だった。
エマが腕を組み、ため息をつく。
「まったく……医療の現場で一番危ないのは、知識のない自己判断よ」
「うん……」
エレナはしょんぼりしながらも、どこか安心した表情だ。
「でもね」
ふと、エレナが顔を上げた。
「もし本当にハヤトにぃにの赤ちゃんだったら、どうする?」
一瞬、空気が張り詰めた。
俺は即答した。
「守る」
「え」
「騒がず、逃げず、責任を持つ」
それだけだ。
余計な言葉はいらない。
エレナはぱっと笑った。
「やっぱり、ハヤトにぃに大好き!」
「話を飛ばすな」
テオが小さく拍手する。
「いやー、さすがハヤト」
「感心してる場合じゃない」
エマが睨む。
検査キットを処分袋に入れ、俺は立ち上がった。
「この件は終わりだ」
「うん!」
「あとで、物品庫の管理者に一緒に謝る」
「えー……」
「一緒にだ」
「……がんばる」
処置室を出ると、医療棟の朝は何事もなかったように続いていた。
だが、俺の一日は、確実に一段階レベルが上がった気がする。
予想外の混乱でも、噂でも、誤解でも。
俺は立ち止まらない。
倒れず、取り乱さず、目の前の現実に対処する。
それが、俺がここに立っている理由だからだ。




