第101話 解毒したら本気でした~屋上オムライスと仮婚姻届未遂の青春~
解毒後のテオは、驚くほど落ち着いていた。
いや、正確に言えば、落ち着こうとしているのが分かる、という状態だ。
薬理学棟の廊下を歩く背中はいつも通り少し前のめりで、足取りも軽い。だが、視線だけはやけに慎重で、曲がり角ごとに立ち止まっては深呼吸している。
「大丈夫か」
「うん。たぶん」
俺の問いに、テオは笑ってみせた。
「頭はすっきりしてる。でも……胸のあたりは、前よりうるさい」
「それは薬じゃないな」
「だよね」
納得したように頷く。
解毒は問題なく終わった。
数値も安定し、副作用も見られない。
つまり、今のテオの感情は、全部“本物”だ。
エマは、その事実を誰よりも理解している。
だからこそ、今日は少し距離を取っていた。
昼休み。
医療棟の屋上は、学生の数が少ない。風が抜け、遠くの校舎がよく見える。ここは、騒がしさから逃げたいときに選ばれる場所だ。
「ここ、初めて来た」
テオがそう言って、フェンス越しに景色を眺めた。
「意外と静かでしょ」
エマが返す。
二人は、並んでベンチに腰掛けた。
その距離は、近すぎず、遠すぎない。
俺とエレナは、少し離れた位置で様子を見ている。
邪魔はしない。ただ、見届けるだけだ。
「ハヤトさん」
エレナが小声で言う。
「今日のテオさん、なんか真面目だね」
「今日“だけ”な」
「失礼だよ!」
エレナが小さく笑う。
テオはリュックを下ろし、少し緊張した様子でファスナーを開けた。
「……あのさ」
「なによ」
「今日は、俺が弁当作ってきた」
「は?」
エマの声が跳ねた。
「ちょ、ちょっと待って。あなたが?」
「うん。昨日の夜、ネットで調べた」
その時点で、嫌な予感しかしない。
「一応、衛生面は気をつけた」
「そこは心配してない!」
エマは即座に突っ込んだ。
テオは弁当箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。
中身は――オムライスだった。
形は少しいびつだが、丁寧に包まれ、ケチャップで文字が書かれている。
「……なに、これ」
エマが、固まる。
そこには、はっきりとこう書かれていた。
――「突っ込みの天才エマ」
「……」
「……」
沈黙。
次の瞬間、エマが顔を上げた。
「どういう意味!?」
「そのまんまだけど!」
テオは真っ直ぐ言った。
「俺、エマの突っ込みに何回も助けられてる。調子乗りすぎたときも、迷子になったときも、ちゃんと戻してくれる」
「戻してる自覚はあるけど! それをオムライスに書く必要ある!?」
「ある!」
即答だった。
「だって、伝えたかったから」
エマの言葉が止まる。
「……ほんと、斜め上」
「褒めてる?」
「褒めてない!」
だが、エマの頬は赤い。
怒っているのに、視線はオムライスから離れない。
「食べていい?」
「もちろん!」
エマはスプーンを取り、ひと口すくった。
「……」
「どう?」
「……普通に、美味しいのが腹立つ」
テオは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エマは小さく息を吐いた。
「ねえ、テオ」
「なに?」
「……解毒、終わったのよね」
「うん」
「それでも、今ここにいる?」
「いる」
迷いはなかった。
「エマと一緒に昼ご飯、食べたかった」
「……ばか」
声は小さかったが、優しかった。
エマは弁当箱を閉じ、テオをまっすぐ見た。
「私ね、あの日、教室で叫ばれたとき」
「うん」
「正直、心臓止まるかと思った」
「ごめん」
「でも」
エマは続けた。
「……嫌じゃなかった」
テオの目が見開かれる。
「むしろ、ちょっと嬉しかった」
「……ほんと?」
「ほんと」
風が、二人の間を抜けた。
テオは一度、拳を握りしめ、それから――とんでもないことを口にした。
「じゃあさ」
「なによ、急に」
「俺たちも、仮の婚姻届け書くか!」
屋上の空気が凍る。
「……は?」
エマの低い声。
「仮ってなに」
「ほら、気持ちが固まるまでのやつ!」
「聞いたことない!」
「でも、ハヤトが――」
「ハヤトは関係ない!」
エマの突っ込みが炸裂する。
俺は思わず視線を逸らした。
エレナが俺の袖を引っ張る。
「ハヤトさん、今の顔、見なかったことにしてあげる」
「頼む」
テオは慌てて手を振った。
「いや、違う! 本気だけど、急ぎすぎたのは分かってる!」
「そこじゃない!」
エマは額を押さえた。
「……でも」
「でも?」
「あなたが真面目なのは、分かった」
エマは、テオを見た。
「私も、ちゃんと向き合いたい」
「……うん」
「仮じゃなくて、まずは普通に」
「普通に?」
「付き合う、とか」
テオは一秒、固まってから――満面の笑みを浮かべた。
「それ、仮じゃないやつ?」
「本物よ!」
「じゃあ、最高!」
思わず立ち上がりそうになるテオを、エマが押し戻す。
「座ってなさい!」
「はい!」
屋上に、笑いが広がった。
俺は、その光景を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
行き過ぎたお節介から始まった騒動は、結局、二人の本音を引き出した。
「ハヤトさん」
エレナが言う。
「終わったね」
「ああ」
「でも、楽しかった」
「それは同意する」
テオとエマは、並んで弁当を食べ直している。
今度は、ケチャップの文字を消しながら。
仮じゃない気持ちは、もうそこにあった。
屋上の空の下で、確かに、青春をしている。
俺はその背中を見届けてから、静かに立ち上がった。
これで、この二人の物語は一区切りだ。
――次に進むのは、それぞれの番だ。




