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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第101話 解毒したら本気でした~屋上オムライスと仮婚姻届未遂の青春~

解毒後のテオは、驚くほど落ち着いていた。

 いや、正確に言えば、落ち着こうとしているのが分かる、という状態だ。


 薬理学棟の廊下を歩く背中はいつも通り少し前のめりで、足取りも軽い。だが、視線だけはやけに慎重で、曲がり角ごとに立ち止まっては深呼吸している。


「大丈夫か」

「うん。たぶん」


 俺の問いに、テオは笑ってみせた。


「頭はすっきりしてる。でも……胸のあたりは、前よりうるさい」

「それは薬じゃないな」

「だよね」


 納得したように頷く。


 解毒は問題なく終わった。

 数値も安定し、副作用も見られない。

 つまり、今のテオの感情は、全部“本物”だ。


 エマは、その事実を誰よりも理解している。

 だからこそ、今日は少し距離を取っていた。


 昼休み。

 医療棟の屋上は、学生の数が少ない。風が抜け、遠くの校舎がよく見える。ここは、騒がしさから逃げたいときに選ばれる場所だ。


「ここ、初めて来た」

 テオがそう言って、フェンス越しに景色を眺めた。


「意外と静かでしょ」

 エマが返す。


 二人は、並んでベンチに腰掛けた。

 その距離は、近すぎず、遠すぎない。


 俺とエレナは、少し離れた位置で様子を見ている。

 邪魔はしない。ただ、見届けるだけだ。


「ハヤトさん」

 エレナが小声で言う。

「今日のテオさん、なんか真面目だね」

「今日“だけ”な」

「失礼だよ!」


 エレナが小さく笑う。


 テオはリュックを下ろし、少し緊張した様子でファスナーを開けた。


「……あのさ」

「なによ」


「今日は、俺が弁当作ってきた」

「は?」


 エマの声が跳ねた。


「ちょ、ちょっと待って。あなたが?」

「うん。昨日の夜、ネットで調べた」


 その時点で、嫌な予感しかしない。


「一応、衛生面は気をつけた」

「そこは心配してない!」


 エマは即座に突っ込んだ。


 テオは弁当箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。


 中身は――オムライスだった。


 形は少しいびつだが、丁寧に包まれ、ケチャップで文字が書かれている。


「……なに、これ」


 エマが、固まる。


 そこには、はっきりとこう書かれていた。


 ――「突っ込みの天才エマ」


「……」

「……」


 沈黙。


 次の瞬間、エマが顔を上げた。


「どういう意味!?」

「そのまんまだけど!」


 テオは真っ直ぐ言った。


「俺、エマの突っ込みに何回も助けられてる。調子乗りすぎたときも、迷子になったときも、ちゃんと戻してくれる」


「戻してる自覚はあるけど! それをオムライスに書く必要ある!?」

「ある!」


 即答だった。


「だって、伝えたかったから」


 エマの言葉が止まる。


「……ほんと、斜め上」

「褒めてる?」

「褒めてない!」


 だが、エマの頬は赤い。

 怒っているのに、視線はオムライスから離れない。


「食べていい?」

「もちろん!」


 エマはスプーンを取り、ひと口すくった。


「……」

「どう?」


「……普通に、美味しいのが腹立つ」


 テオは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、エマは小さく息を吐いた。


「ねえ、テオ」

「なに?」

「……解毒、終わったのよね」

「うん」


「それでも、今ここにいる?」

「いる」


 迷いはなかった。


「エマと一緒に昼ご飯、食べたかった」

「……ばか」


 声は小さかったが、優しかった。


 エマは弁当箱を閉じ、テオをまっすぐ見た。


「私ね、あの日、教室で叫ばれたとき」

「うん」

「正直、心臓止まるかと思った」


「ごめん」

「でも」


 エマは続けた。


「……嫌じゃなかった」


 テオの目が見開かれる。


「むしろ、ちょっと嬉しかった」

「……ほんと?」

「ほんと」


 風が、二人の間を抜けた。


 テオは一度、拳を握りしめ、それから――とんでもないことを口にした。


「じゃあさ」

「なによ、急に」


「俺たちも、仮の婚姻届け書くか!」


 屋上の空気が凍る。


「……は?」


 エマの低い声。


「仮ってなに」

「ほら、気持ちが固まるまでのやつ!」


「聞いたことない!」


「でも、ハヤトが――」

「ハヤトは関係ない!」


 エマの突っ込みが炸裂する。


 俺は思わず視線を逸らした。

 エレナが俺の袖を引っ張る。


「ハヤトさん、今の顔、見なかったことにしてあげる」

「頼む」


 テオは慌てて手を振った。


「いや、違う! 本気だけど、急ぎすぎたのは分かってる!」

「そこじゃない!」


 エマは額を押さえた。


「……でも」

「でも?」


「あなたが真面目なのは、分かった」


 エマは、テオを見た。


「私も、ちゃんと向き合いたい」

「……うん」


「仮じゃなくて、まずは普通に」

「普通に?」

「付き合う、とか」


 テオは一秒、固まってから――満面の笑みを浮かべた。


「それ、仮じゃないやつ?」

「本物よ!」


「じゃあ、最高!」


 思わず立ち上がりそうになるテオを、エマが押し戻す。


「座ってなさい!」

「はい!」


 屋上に、笑いが広がった。


 俺は、その光景を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

 行き過ぎたお節介から始まった騒動は、結局、二人の本音を引き出した。


「ハヤトさん」

 エレナが言う。

「終わったね」

「ああ」


「でも、楽しかった」

「それは同意する」


 テオとエマは、並んで弁当を食べ直している。

 今度は、ケチャップの文字を消しながら。


 仮じゃない気持ちは、もうそこにあった。

 屋上の空の下で、確かに、青春をしている。


 俺はその背中を見届けてから、静かに立ち上がった。

 これで、この二人の物語は一区切りだ。


 ――次に進むのは、それぞれの番だ。

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